コラム一覧

笠井叡 舞踏をはじめて <14>

1976年3月、九段会館で『トリスタンとイゾルデ』を上演。 1969年の『タンホイザー』に続き、『トリスタンとイゾルデ』でもワーグナーを踊っています。これらは私にとって特別な作品でした。 『トリスタンとイゾルデ』には二人の女性が出演しています。ワーグナーのテーマは男女の愛で、一番それがはっきり出ているのが『タンホイザー』と『トリスタンとイゾルデ』の二曲。音楽と感情の力が結びついているのがワーグナー...



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笠井叡 舞踏をはじめて <13>

1976年1月、ソロリサイタル『月読蛭子』開催。続いて4作のソロ作品を発表する。 天使館ができてからは、天使館公演として群舞作品を発表することが多くなりました。なかでも一番代表的な作品が『七つの封印』で、続いて翌年『伝授の門』を発表しています。再び本格的にソロの形態に戻したのが『月読蛭子』。この年は3月に『トリスタンとイゾルデ』、9月に『個的秘儀としての精霊舞踏のために』、12月に『物質の未来』と...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(38)

寛容な音律にのせて 帰国翌年の2008年11月、『The Well-Tempered』が大阪で初演を迎えました。野間バレエ団の委嘱作で、初演ではまず群舞作品として創作し、ダンサーは野間バレエ団の団員が出演しています。 Well-Temperedとは、古典調律の方法の一種。今はWell-Temperedで調律されている楽器はほとんどなく、完全平均律になっているけれど、昔は純正和音が大切にされていた時...



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笠井叡 舞踏をはじめて <12>

1972年8月、天使館公演『三つの秘蹟のための舞踏会』を開催。高橋巌と出会い、ドイツへの道が開かれる。 天使館公演『三つの秘蹟のための舞踏会』の会場は厚生年金会館で、そこに高橋巌さんが観に来られた。高橋さんはルドルフ・シュタイナーを日本に紹介した方で、高橋さんと出会ったのがヨーロッパに行くひとつのきっかけになりました。ただ実際にドイツに行くのはそれから10年ほど先になります。 日本にはどうして霊学...



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笠井叡 舞踏をはじめて <11>

1969年、ソロリサイタル『タンホイザー』を厚生年金会館で開催。リヒャルト・ワーグナーを初めて踊った。中西夏之が舞台美術として参加している。 『タンホイザー』のチラシに、澁澤さんが寄稿してくれています。「とどまるところなく分裂と背叛をつづけて行かねばならない私たちの生は、すでに観念にも絶望し、肉體にも絶望し……」とあります。当時はまさにそういう時代でした。“全ての出発を言葉ではなく身体からはじめる...



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笠井叡 舞踏をはじめて <10>

大学四年生のとき、ソロリサイタル『稚児之草子』を開催。世は学生運動が激化の一途を辿っていた。 東大安田講堂で学生がバリケードを組んで学校を占拠する事件、いわゆる東大紛争が起こり、学園闘争が激しさを増しつつありました。あちこちでデモが起きていて、学生たちが警察相手にゲバ棒を振り回しているような時代です。 私も同じ大学生ではあったけど、学園闘争には一切興味が持てずにいた。しらけているというか、そんなこ...



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森優貴『白鳥の湖 ―The Lake―』インタビュー!

古典の名作『白鳥の湖』をもとに、森優貴さんが手がける『The Lake』。この大作に挑む心境をお聞かせください。 森>『白鳥の湖』全幕の演出振付をするのははじめての経験です。きっとこれは自分にとって一生に一度の経験になるでしょう。 私自身これまでいろいろな『白鳥の湖』を観てきたし、ダンサーとして踊ってもきました。いろいろな作品に触れてきたからこそ、音楽の捉え方やイメージは目をつぶっていても浮かんで...



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笠井叡 舞踏をはじめて <9>

1967年10月、『舞踏への招宴』を上演。『磔刑聖母』に次ぐ二度目のソロリサイタルで、第一生命ホールで踊った。 本当は処女リサイタルでソロを踊るつもりだったけど、そうはいかなくなってしまった。だからこのリサイタルは完全なソロにしようと決意した。『舞踏への招宴』は小品集で、処女リサイタルで大野さんが振付けてくれた『磔刑聖母』や『O嬢への譚舞』、『薔薇の精』、『牧神の午後への前奏曲』、『変宮抄』、『菜...



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笠井叡 舞踏をはじめて <8>

1966年8月、処女リサイタル『舞踏輯 磔刑聖母』を銀座ガスホールで上演。プログラムは「磔刑聖母」「母装束」「龍座の森」ほか。制作は土方巽で、大野一雄、高井富子が賛助出演をした。 処女リサイタルは誰にも頼らず私ひとりでやるつもりでいた。ところが土方さんが「自分が振付をする」と言い出した。「ありがたい申し出だけど、ひとりでやりたいので今回は……」とお断りしたら、「じゃあ制作をする」と言って譲らず、結...



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笠井叡 舞踏をはじめて <7>

『バラ色ダンス』に続き、土方巽の『性愛恩懲学指南絵図、トマト』に出演。1966年7月、新宿紀伊國屋ホールで開催された。 『性愛恩懲学指南絵図、トマト』は当初『神々の恩寵』というタイトルになるはずでした。けれど土方さんが「神に対する恩寵というのはあまりいいとは思わない。“寵”は“懲らしめる”の方がいい」と言って、最終的に“恩懲学”に変えています。 作品の発端になったのが、ルネ・ホッケの『迷宮としての...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(37)

詩を身体に置き換えていく 創作のため、Noismの拠点・新潟に滞在しています。まず最初にワークショップを行い、同時にキャストを決めていきました。キャストに選んだのは、金森穣さん、井関佐和子さん、青木尚哉さん、宮河愛一郎さん、山田勇気さん、藤井泉さん、中野綾子さんの7名です。 穣さん、井関さんはNDT時代からの知り合いで、青木さんとも何度か一緒に仕事をしたことがありました。当時Noismは設立後まだ...



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笠井叡 舞踏をはじめて <6>

1965年、21歳のとき土方作品『バラ色ダンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)』に出演する。 私はパンツに白塗りの格好で、透明のビニールホースを口にくわえ、それを吸いながら床に叩きつけるという踊りを石井満隆さんと二人で踊りました。土方さんの中に“物を消す”というテーマがあって、私たちの踊りは“胎児が物を消していく”というイメージだったようです。 土方さんは...



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笠井叡 舞踏をはじめて <5>

『あんま~愛欲を支える劇場の話~』で目にした土方は強烈だった。その興奮も覚めやらぬまま、同年12月、土方と会う。 『犠儀』の2ヶ月後のことです。大野先生のお宅にいたら、やたらと目つきの悪い男が廊下の向こうからやってきた。ヤクザが来たかと思ったら、大野先生が「土方さんです」と紹介してくれた。それが土方さんとのはじめての出会い。土方さんは『犠儀』の噂を人から聞いていたようです。はじめて会ったとき、「君...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(36)

子育てをおえて 娘が18歳になったとき、あぁもう大丈夫だ、後は自由に自分自身で判断すればいい、という気持ちになりました。私自身18歳で親元を離れ、海外に出て、仕事も私生活も全て自分で決めてきた。親にはいつも事後報告でした。いろいろなことはあったけど、あっけなく母親が終わろうとしている感覚です。 子どもを産んで、子育てをして、気づかされたこともたくさんあります。 子育ての難しさに直面したとき読んだ本...



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笠井叡 舞踏をはじめて <4>

1963年、初のプロデュース公演『犠儀』の会を開催。大野一雄とはじめてデュエットを踊る。 『犠儀』を開催したのは、大野さんの稽古場に通い出してから半年後のことでした。30分ほどの作品で、朝日新聞社の6階にあった朝日講堂で踊っています。 私としてはこの作品でぜひ大野さんとデュエットを踊りたいという気持ちがあった。大野さんに「一緒に踊ってください」とお願いしたら、うれしいことに「いいですよ」と快く引き...



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笠井叡 舞踏をはじめて <3>

都立大学の飲み屋で耳にした噂話が、その後の人生を大きく変えた。1963年、19歳で大野一雄の門下生となる。 江口先生の稽古終わり、女性たちに誘われて、みんなで飲みに行くことになりました。そこで「すごく変わったおじいさんが天井から大きな牛肉の塊をぶら下げて、小指一本でつついてダンスをしているのを観た」と誰かが話すのを聞き、たいそう興味をそそられた。「それは誰?」と尋ねると、「大野一雄という人だ」と言...



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笠井叡 舞踏をはじめて <2>

小学校はむさしの学園に、中学受験をして中学・高校は山水学園に通う。かつて軍人学校の指定が入ていた学校で、現在は桐朋学園と変更。普通教育のほか音楽学校としても知られている。 吉川先生の影響もあり、中学・高校時代は演劇部に入りました。劇場にもたびたび足を運んでいましたが、私は大衆演劇のような作品はあまり好まず、文学座や俳優座を主に観るようになりました。芝居そのものだけではなく、舞台を通して社会がどう変...



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笠井叡 舞踏をはじめて <1>

1961年5月、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に入門。モダンダンスのレッスンを受け、ダンスの道へ入る。 私がダンスの稽古をはじめたのは高校卒業後すぐ、18歳のときでした。都立大学駅近くにあった江口隆哉・宮操子舞踊研究所に通い、モダンダンスを習っています。そこから私のダンス人生がはじまった。けれどそれは自ら望んだ道ではなくて、母に背中を押されてはじめたことでした。 幼い頃から私は将来の夢というものを持っ...



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川口隆夫新作『バラ色ダンス 純粋性愛批判』インタビュー。

土方巽の『バラ色ダンス』(1965)をモチーフに作品をつくろうと考えたきっかけは? 数ある土方作品のなかで『バラ色ダンス』に着目されたのはなぜでしょう。 川口>土方の『病める舞姫』という著書を題材に、2012年から『ザ・シック・ダンサー』という作品を上演してきました。『病める舞姫』はテキスト自体がとても面白く、70年代に土方がつくる舞踏譜と関連があるともいわれています。土方は68年に『肉体の叛乱』...



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リアル動画で話題沸騰! 谷桃子バレエ団芸術監督・髙部尚子インタビュー <前編>

公式YouTubeが大きな話題を集めています。撮影をチャンネル登録者数138万人・ローランドの『THE ROLAND SHOW』制作で知られるソンDチームが手がけ、今年6月にリニューアル。『【批判覚悟】バレエ監督の告白……』と題した一番人気の動画は40万回再生され、大きな反響を呼びました。 髙部>この反響は想像もしていませんでした。「ローランドさんを撮っているチームが制作するのでバレエに興味がない...



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