コラム一覧

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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(21)

労働時間外の創作活動 ワークショップで自作を発表するチャンスは希望者に与えられます。私が在籍していた頃は振付が盛んで、出品を望むダンサーが多くいました。ただ発表の場となるチャリティー公演は労働時間外のイベントなので、創作も労働時間外に行わなければなりません。振付をしたい人がたくさんいる一方で、自分の自由時間を割いて出演するというダンサーはある程度限定されていて、そうなるとひとりの人が何作品も掛け持...



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https://dancedition.com/post-4176/

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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(20)

修道院でプロジェクト 休日というのはカンパニーの仕事で疲れた身体を休めるためのものであり、リフレッシュするために使う、というのが大前提。オランダでは休みも含めた年13ヶ月分のお給料が出ることになっていて、休みの間は倍の月給が支給されます。休みの分もお給料を払っているのだからきちんと休んで欲しい、というのがカンパニーの言い分です。ただダンサーの中には休みを活用してNDT外で自分たちのプロジェクトをし...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(19)

ダンサー生命を救ったオハッド 腰痛に悩まされていたとき、大きな救いになったのがオハッド・ナハリンとの出会い。オハッドもヘルニアを患っていて、身体を動かすことで不調を克服する方法を研究してた。当時はまだGAGAとしてメソッドを確立する前で、彼が自分自身の訓練のために使ったり、クラスを教えるときに取り入れていたようです。 オハッドが創作のためNDTに長く滞在し、その過程で身体の使い方を教わったことで、...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(18)

ダンサーは三食キチンと! NDTは休みに関しても契約上細かいルールが決められています。休日は基本的に月6日で、週末の日曜だけ1日か、もしくは日曜と月曜の2日間。当時のオランダはお店の開店時間が朝9時から夕方の6時までで、日曜は閉まってしまいます。街によっては週に一回夜8時まで開いているところがあるものの、そうなると6時〜8時の間は長蛇の列。公演があると平日は買い物ができず、休みの日に私の車にみんな...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(17)

ダンサーが勝ち取ってきたルール NDT1には入団年齢の規定は特にありません。かつてはバレエ学校を卒業したての16歳でNDT2に入り、二年間の研鑽を経て18歳でNDT1に入るような人もいたようです。ただ私の時代はバレエ学校で学ぶことが増えたため18歳での卒業が通常となり、NDT2を経て20歳前後でNDT1に入る、というケースが多くなりました。カンパニーの体制にも変化があって、私がNDT1に入った年の...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(16)

オランダで暮らすということ 私たち外国人にとって、オランダはとても暮らしやすい土地でした。もともとオランダは植民地にしていた場所がたくさんあったため、外国人も多く住み、多民族の文化や生活が混ざり合っている。非常にリベラルな国で、多様な価値観が共存できる。 フランスにいた頃は、アジア人ということで差別を受けることもよくありました。街で買い物をしていても、後回しにされるようなことはしょっちゅう。きっと...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(15)

海外ツアーで世界を巡る カンパニーを世界中に連れていってあげたい、ダンサーに世界を見せてあげたい、という気持ちがキリアンの中に強くあり、実際当時は海外ツアーが頻繁にありました。カナダ、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、ロシア、イスラエル、韓国、ニュージーランド、オーストラリア……。NDTの最盛期でもあり、世界中どこに行ってもNDTは大人気でした。 キリアンを筆頭に、ツアーはダンサーから...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(14)

キリアンの世界に魅せられて 今日の朝までなかったのに、今この瞬間つくられて、少しずつ作品が出来上がっていく。今までなかったものがここにある。けれど私が踊らない限り、作品はない。そこに魔力のように取り憑かれてた。どんなに若く駆け出しの振付家と仕事をしても、その時期はまるで恋をしているかのように魂を奪われたし、触発されるものがありました。とりわけキリアンとの創作はとても大切な時間でした。 振付家として...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(13)

ブーイングを全身で受け止める キリアンと創作ができるのはみんなにとってとても幸せな時間でした。彼はなぜあんなに素晴らしい作品を、あんなにも多くつくることができたのでしょう。やはり天才なのかもしれません。とはいえキリアンのつくる作品も全てが全て名作ばかりとは限りません。世界中のカンパニーでレパートリー化されているキリアンの振付作は、売れていった作品であり、いわば選りすぐりの名作ばかり。なのでキリアン...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(13)

ブーイングを全身で受け止める キリアンと創作ができるのはみんなにとってとても幸せな時間でした。彼はなぜあんなに素晴らしい作品を、あんなにも多くつくることができたのでしょう。やはり天才なのかもしれません。とはいえキリアンのつくる作品も全てが全て名作ばかりとは限りません。世界中のカンパニーでレパートリー化されているキリアンの振付作は、売れていった作品であり、いわば選りすぐりの名作ばかり。なのでキリアン...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵(12)

ヨーロッパのシビアなダンス事情 オランダの場合、勝手に“ダンスカンパニー”を名乗ることはできません。例えばフリーランスで活動する場合、ひとつのプロダクションのために助成金を申請して公演を打つというのが通常のケース。そこからもう少し発展して法人化する場合、1年分、4年分、8年分の助成金と、長いタームの助成を申請します。カンパニーをつくって企業として成り立たせるためには、通年以上の助成金を獲得しなけれ...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (11)

総勢50名の大作でキリアンの創作初体験 キリアンの創作に初めて立ち会ったのは『Arcimboldo』。NDTの創立時からファイナンシャル・ディレクターを務めていたカレル・ビルニが亡くなり、彼への哀悼の意と、バレエ団創立35周年のためにキリアンが創作した作品でした。 ジュゼッペ・アルチンボルドは16世紀に活躍した画家で、遊び心に満ちた作品を描いた人物でした。彼の有名な作品に、細部が全て野菜で描かれた...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (10)

あざだらけの初舞台 NDT2に入って最初に踊ったキリアン作品は『Un Ballo』。私の入団前年にキリアンがNDT2のために創作した作品です。まずバレエマスターから振付を教わり、ある程度踊り込んだ頃、キリアンが仕上げにやってきました。『Un Ballo』に限らず、キリアン作品を上演するときは必ず最後にキリアン自身が仕上げにかかります。キリアンは今でもよく“形はできても、最後に魂を込められるのは振付...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (9)

藤色のレオタードの子、残って NDTは当時絶頂期で、オーディションには世界中から大勢のダンサーが集まっていました。おそらく200人くらいは来ていたのではないでしょうか。スタジオにいても身動きができないほどで、審査も何グループかにわかれて行っています。 ディレクターのキリアンとバレエマスターが見守るなか、オーディションがはじまりました。一次審査はクラシックバレエで、グループごとに審査が進み、キリアン...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (8)

期間限定のアヴィニョン モンテカルロ・バレエ団に入団が決まったものの、シーズンは次の夏からなのでまだ当分時間がある。当時ボーイフレンドがアヴィニョン・オペラ座で踊っていたので、彼と一緒にアヴィニョンへ行き、しばらくの間バレエ団の稽古を受けることになりました。 アヴィニョンのディレクターはフランスでも屈指のテクニシャンといわれていたダンサーで、彼のレッスンを毎日受けている内に私のテクニックもめきめき...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (7)

全治8ヶ月の診断に…… 痛めたのは靱帯で、全治8ヶ月という診断でした。11月に日本で手術をして、ギブスが取れ、松葉杖が取れ、リハビリをはじめ、少しずつレッスンができるようになったのが翌年の春。 私が通っていたのはスポーツでケガをした人を専門的に治療しているリハビリ施設で、患者はサッカー選手やアメフトの選手といった身体の大きな男性ばかり。バレエの世界とは全く様子が違います。みなさんスポーツに合わせた...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (6)

グランフェッテできる? “コンクールの結果がダメだったら?”とは考えていなかったけれど、かといってその先の具体的な計画もありませんでした。同級生はどんどん進路が決まっていくのに、私は大学進学も考えておらず、“これからどうしよう?”と模索しているような状態です。 海外に行きたいという気持ちはありましたが、当時は海外のバレエ団の情報源といえば、ダンス専門誌をチェックしたり、周りの人たちから話を聞く程度...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (5)

初の受賞はローザンヌ ローザンヌ国際バレエコンクールには二回出場しています。一回目は1987年。パリに短期留学している最中で、ローザンヌにはパリから直接行きました。コンクールは高校二年の冬休み明けで、それまで数学が一番好きな科目だったのに、向こうに行っている間に授業が進んでしまい、帰国後に受けた試験がさんざんだったのはちょっと悲しい思い出です。 ローザンヌ国際バレエコンクールの課題は古典2曲と創作...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (4)

国際コンクールの成果が条件 母は私がバレエを続けることに懐疑的で、できれば別の道に進んで欲しいと考えていたようです。高校生になると何かにつけ“もうすぐ試験なんだからバレエのお稽古は休みなさいよ”と言われるようになりました。親としてはそれが普通の感覚なのかもしれません。しかし私は大学には行くつもりはなく、だからといってどうするという具体的なプランもなく、バレエを続けたいという気持ちだけが強くありまし...



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ダンサーズ・ヒストリー 中村恩恵 (3)

手づくりの稽古場で 姉妹のうちバレエを習ったのは私だけ。姉は幼い頃からヴァイオリニストになるよう親から託されていて、生まれたときすでに一番小さい子ども用のヴァイオリンから大人用のものまで全て揃えられていたと聞いています。姉はイタリアにいた頃からヴァイオリンを習っていて、その他にもソルフェージュを習い、ピアノを習い、絵を習い、習字やそろばんも習っていて、バレエを習う余裕はもはやありません。 実は私も...



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