バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第16回〉バレエが原作のコンテンポラリー作品〜名作をアップデートしていく、天才達のアイデア〜

“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

バレエが原作のコンテンポラリー作品〜名作をアップデートしていく、天才達のアイデア〜

コンテンポラリー・ダンスの中には、古典に材を取った作品も数多い。
もちろん古典が持つ力を利用したり、古典を今日的な解釈で新しい視点を示したりと、様々なアプローチがある。

ただもともと名作として高く評価されている古典に手を加えるのは、本来リスキーな行為である。「古典を見てるほうがよっぽどいい」と言われるようでは意味がない。アーティストの力量が試されるところだ。

今回はそのあたりをバレエとコンテンポラリー・ダンスの関係で見てみよう。

コンテンポラリー作品に生きる古典

もっとも今では、歴史あるバレエ団も古典の新しい解釈や振付に挑んでいる。「バレエをベースにしているコンテンポラリー的アプローチの作品」も多く、両者を厳密に分けるのは難しい。本稿でも、そのへんはゆるく扱っていきたい。

しかしこのテーマは書き出すとそれこそ無限に出てくるので、ここでは以下の点に従ってコンテンポラリー・ダンスにおける古典(バレエ作品)の使われ方を見ていこう。

【コンテンポラリー作品でのバレエ作品の扱い方】
  • その1:わりとそのまま
  • その2:枠組みだけ利用(現代へ読み替え移植)
  • その3:新解釈(古典の再検討)
  • その4:表現方法の変化

その1:わりとそのまま

●『ロミオとジュリエット』は鉄板

バレエ作品のストーリーも全体の枠組みも、わりとそのまま使う場合。
とくに『ロミオとジュリエット』などは鉄板である。

大抵の恋愛物は障害を乗り越えることでドラマが生まれるので、そこにロミジュリ風味を匂わせておけば深みが出る。魔法のスパイス的な存在でもある。

第1回で紹介した、『ロミオとジュリエット』を近未来に移し替えたアンジェラン・プレルジョカージュ版のように、曲も原作と同じものも多い。

『くるみ割り人形』は子供向けのプログラムとして人気で、コンテンポラリー作品もよく創られる。だが登場人物や話の展開が独特で、かつ魅力的なので、そのままやった方が面白いことの方が多い。

●『白鳥の湖』、どう終わらせるか問題

バレエは進化し続ける芸術である。
それぞれの作品の解釈や演出に天才たちが悩み、結果として様々な○○版が誕生している。
たとえば正統の中の正統、古典の中の古典である『白鳥の湖』も、ラストをどうするか、様々に考えられてきた。

初演に近いプティパ=イワノフ版は(人間でいられる夜のうちに)身を投げたオデットの後を追ってジークフリート王子も死ぬ。しかし二人の愛の力で悪魔の呪いは解かれ、二人は結ばれて黄金の船で「永遠の国」へと旅立つ。悲劇とハッピーエンドがブレンドされたラストである。

他にもなんとか生命を救うためのラストが工夫されてきた。「ロットバルトとの約束を違えた王子は死ぬが、そのおかげでオデットたち白鳥の呪いも解ける」や、「二人とも死なせないハッピーエンド」も何パターンかあり、現在定番のブルメイステル版はジークフリートがロットバルトに勝って白鳥の呪いも解ける。
かと思うと、ジークフリートがロットバルトによって荒れる湖で溺死させられ、オデットが連れ去られる(ヌレエフ版)、あるいはおなじく溺死させられたあと、次の恋を探すかのごとく去って行くオデット(クランコ版。あとロットバルトが必要以上に格好いい)など。
勝ち負けも生き死にも、およそ考え得る限りの組み合わせが繰り広げられている。

●バレエ界でも挑戦

またバレエの技術をベースとしながら、物語の状況を現代に置き換える作品もある。

ジョン・ノイマイヤーの『幻想「白鳥の湖」のように』は、白鳥と芸術を深く愛しながらも狂王と言われたルートヴィヒ二世になぞらえている。
オーストラリア・バレエ団グレアム・マーフィー振付の『白鳥の湖』はダイアナ妃をめぐる英国国家のスキャンダルを描いて話題になった。ジークフリート王子とオデットは新婚だが、王子はかなり年上のロットバルト男爵夫人と不倫している。最後には若い二人が結ばれ、ロットバルト男爵夫人が世界の闇(衣裳とつながった黒い布)ごと床の穴に吸い込まれていき、真っ白い世界が現れる。

『白鳥の湖』が決して神棚に上げられた存在ではなく、1877年の初演以来150年近く経っても今なおアーティストの想像力を刺激してやまない、生々しい力を持った作品である証左だろう。

その2:枠組みだけ利用(現代へ読み替え移植)

●挑みかかるボーンとカオス

この連載で見てきたように、名作の中には女性が理不尽に傷つけられたりと、現代の観客にとって倫理的・常識的にそぐわない物も多い。それは当時の社会常識としてはリアリティがあったとしても、現代の観客にとっては要らない演出と映る。
そういうのはいいから、もっと作品の魅力を掘り下げて欲しい。
そこで状況を現代に移せば、無理なく今日的な視点で古典を見直すことができるわけだ。

中にはバレエの古典を片っ端から現代に置き換えていく振付家もいる。
たとえば初期のマシュー・ボーンだ。
『くるみ割り人形』、『ハイランド・フリング(『愛と幻想のシルフィード』)』(=『ラ・シルフィード』)、『スワン・レイク』(=『白鳥の湖』)、『シンデレラ』、『ザ・カー・マン』(=『カルメン』)、『眠れる森の美女』、『ロミオとジュリエット』などなど。
しかも大ヒットした『スワン・レイク』をはじめ、全編何らかの仕掛けがある。とくに性(同性愛)と暴力が濃厚に描かれるものが多い。

日本でもH・アール・カオス『白鳥の湖 零のエクリチュール』『春の祭典』『ロミオとジュリエット』など、数々のバレエ作品を現代的なテーマで描いていた。カンパニー全員が高いバレエの技術を持ち、いまやオペラの演出でも高く評価される振付の大島早紀子は、劇的なドラマの構成と広いスケールで舞台を作ることができる。そしてメインダンサーの白河直子が強烈なソロで作品を昇華させていった。

ちなみに気鋭のアレクサンダーエクマン『白鳥の湖』は、1877年のプティパの初演制作時にまで話が飛び、途中でミュージカルを作ろうとする人々がでてきたりする。最後には舞台上に大量の水を張ってダンサー達が踊りまくったが、いまひとつの内容だった。エクマンは「水を使った何かをやりたかった」とのことである。

●劇場の企画で『白鳥の湖』に挑む

劇場「d-倉庫」が若手に様々なお題を出して公演させる「ダンスがみたい!」という良シリーズがある。
内容も様々で、「春の祭典」「エリック・サティを踊る」「『病める舞姫』を上演する。」「サムルノリ『三道農楽カラク』を踊る。」「日本国憲法を上演する。」などバラエティに富んでいる。

その中で『白鳥の湖』がお題になり、様々な年代の振付家が挑戦した。
しかし『白鳥の湖』はコンテンポラリー・ダンスではやりづらいところがある。名作過ぎて手を出しにくいのと、登場人物の心情がなかなかスッキリとわかりにくい点だ。現代的なドラマの整合性に合わせようとすると、どこか無理が出て、余計な説明をくどくどしなくてはならなくなりそうである。もちろんそれらをクリアした名作は多々あるのだが。

このときは全体で、12団体が挑んだ。
黒須育海『co.ブッシュマン』は、闇の中でバサバサと羽ばたく音がする。照明が上がると鳥のようなトカゲのような、ひたすら自分たちのパワー系の作風に寄せていった。
三東瑠璃『みづうみ』はノーベル賞作家・川端康成の同名小説にちなむ。「美少女の黒い目の中のみづうみを裸で泳ぎたい」という、日本が誇るド変態じじいの世界観を描いた。
川村美紀子のソロダンス『白鳥の湖』は凄みがあった。「お姫様」に憧れてドレスを着ている可愛い少女の写真が映し出される。そこへ川村自身がお姫様ドレスを着て登場。つまり「大人になっても王子様を待っている、精神的に成長していない女」の登場である。チャイコフスキーの曲をノイズで歪ませ、ポッピン全開で踊りまくる。王子様は赤いフンドシ一丁のマネキンである。「都合のいい女」であることを拒否した女(オデット?)は、最後に王子のマネキンをバラバラに叩きつけるのだった。

その3:新解釈(古典の再検討)

●古典に残された様々な「謎」が

2に近いが、こちらは古典を題材にしつつも、その中に新しいもしくは独自の解釈を盛り込み、これまで見過ごされてきた古典に新しい光を当てていく作品である。
というのも、けっこう古典には論議を呼ぶ謎というか「余白」があるからだ。

【名作バレエのゆるやかな疑問】
  • なぜ『ジゼル』はウィリの女王ミルタに抵抗してまで、ひどい仕打ちをしたアルブレヒトを助けようとしたのか?
  • 『白鳥の湖』のロットバルトは、オデットを白鳥に変えたりジークフリート王子をだましたりするけど、いったい何にそこまで怒ってるの?
  • 『眠れる森の美女』のカラボスは、「誕生日のお祝いに招待されなくてプンスカしたから呪いをかけた」? いいオトナがそんなことする?
  • 『くるみ割り人形』のドロッセルマイヤーさんの正体は、まだなにかウラがあるんじゃないか?

……などなど。どれもいちおうの説明はされているのだが「そうはいっても……」「じつはこうなんじゃないのか」といった謎解きの楽しみがある。

●エックと衝撃

古典の新解釈の中でも、特筆すべきは巨匠マッツ・エックの初期の名作『ジゼル』『白鳥の湖』だろう。
まず『ジゼル』。第1幕は普通のクラシック風に進むのだが、休憩を挟んで第2幕があくと、精神病院の明るい病室で、ジゼルは患者なのである。
かなりの違和感だ。しかし古典も、第1幕の明るい農村から、第2幕のウィリ(未婚で死んだ女性の霊。迷い込んだ男を死ぬまで踊らせる。女王がミルタ)達が住む深い森へいくのは、多少違和感がある。

じつは台本のテオフィル・ゴーティエがこのアイデアを思いついたのは、ハイネの詩に描かれたウィリの伝説を読んでバレエ化したいと思ったから。つまりまず第2幕ありきで、導入のために第1幕が作られたのが『ジゼル』なのである。違和感の正体は「付け足し感」だったのかもしれない。

そもそもジゼルの死因は「身体が弱かった」というだけで判然としない。アルブレヒトのせいなのは間違いないが、失恋のショック、あるいは狂死とされる。しかしいくら19世紀ロマン主義とはいえ「失恋の果てに狂死」が、どれだけポピュラーな死因だったのだろう。

エックは病んだジゼルと、アルブレヒトを病院で再会させた。そして最後アルブレヒトはウィリではなく大勢の患者の皆さんに身ぐるみを剥がれることになる。

今では「ジークフリート王子はマザコン」だとする『白鳥の湖』の解釈はめずらしくないが、その嚆矢はエックだろう。さらに白鳥たちは坊主頭で、白鳥というよりはアヒルのような足の運びだ。マザコンの王子にとって若い白鳥たちは、魅力の対象ではないのである。様々な意味で衝撃的だった。

その4:表現方法の変化

●ジャン=クリストフ・マイヨー

これは古典を描くのに、表現方法を変えることで新しい解釈やテーマの深め方を示すものだ。
バレエの世界でも、『白鳥の湖』のオデット(白鳥に変えられた人間)とオディール(黒鳥。ロットバルトの娘)も一人で演じるか二人で演じるかで、役の解釈も変わってくるだろう。

モンテカルロ・バレエのジャン=クリストフ・マイヨーも様々なクラシック・バレエ作品に挑んでいる振付家である。独特のポップさには好みが分かれるが、古典作品の描き方に新しいアイデアを盛り込む点で優れた作品が多い。

マイヨーが『シンデレラ』でやった、ガラスの靴の独特な表現方法については第10回で書いた。しかしストーリー的にも、原作では存在感のない父親の姿をしっかりと描くなど見るべきところがある。さらに助けに現れる魔法使いを、亡くなったシンデレラの実母として描き、「夫から妻への愛」「親から娘への愛」「若い二人の愛」を重層的に描いてみせた。

『LAC白鳥の湖』は、マイヨーの「変身した白鳥には手がないはず」という解釈から(こだわり方が独特ではある)、鬼才のデザイナー、フィリップ・ギヨテルが、手先に羽を施したさすがのデザインで変身を視覚化した。

『La Belle(ラ・ベル/美女)』もやはりギヨテルのデザインで、『眠れる森の美女』のオーロラ姫が巨大なビニール製のシャボンの中に入っていて、男達が近づけないようになっている。これは少女期に異性との接触に恐怖を感じてしまう反応にも、あるいは精子と卵子の関係にも見える。

●恋愛をソロで。意外なタイトル

また「恋愛物を、あえてソロで踊る」表現方法で挑む作品もある。
H・アール・カオスの『ロミオとジュリエット』は、白河直子のソロ。もともと白河は両性具有的な魅力のダンサーだが、この作品では恋愛自体をテレビゲームの中のこととして描いた。
1996年という上演年を考えると(まだ流麗なCGはなく、カクカクしたドット絵でも「本物そっくり!」と喜べていた)、新しいテクノロジーに果敢に挑戦していた作品である。

中村蓉は『ジゼル』をソロで演じた。
予定していた公演がコロナで中止になり映像配信をしたのだが、その段階ではジゼルとアルブレヒトとミルタを一人で演じ分けていた。
しかしのちに舞台公演が実現した際には、アルブレヒトの存在感はほとんどなくなり、ジゼルとミルタ、それに劇中に流れる歌手のアデルに引用されるヴァージニア・ウルフの言葉など、強烈な女性キャラが表に出てきていた。女性側から見た『ジゼル』なのか、あるいは憎くても愛しても胸の中に留まり続ける誰かなのか。ソロであることで、ジゼルの内面がより深く掘り下げられていた。

タイトルから「おっ!?」と思わせるものもある。
ニブロール『Romeo OR Juliet』は、「&」の代わりに「OR」。ロミオとジュリエットに代表される「当たり前だと思われている様々な境界線(男女、家柄など)」を問い直していく作品。恋愛だからといって男女の組み合わせである必要はないのだ。

Noism『ROMEO & JULIETS』は、車椅子のロミオと5人の「ジュリエットたち」。舞台は精神病院で、大公は影でビッグブラザーの如く存在し、舞台上部のモニターは監視カメラの分割映像を映し出す。常に見張られる世界。SPACとの共同制作なので役者も登場しセリフも使う。当初ロミオが惚れていたロザラインも絡んでくる。5人のジュリエット達は幻影なのか、遠い日のロザラインと重なるのか、様々な余地を残していた。

まとめ:時を経るのではなく、超えていけ

●○○界の『白鳥の湖』!?

スケートでも体操でもヒップホップでも、「○○界の『白鳥の湖』を作りたいんすよね」という声はしばしば聞く。
『白鳥の湖』の存在の大きさを示すものではあるけれど、
「へえ。で、バレエの『白鳥の湖』のラストって、どんなんだったっけ?
と聞くと、モニャモニャしてしまうことがほとんどだ。
これは、一度も全幕バレエを通して見たこともない口先だけのヤツを一発で見抜けるうえ、舞台を見ているがラストがいろいろあることまで知っているのか本気度を調べることもできる、二段構えの質問である。

●古典のなにが、人の心を捉え続けているのか?

舞台芸術は、流行りすたりの激しい世界だ。本や絵のように作品が残っていくものでもない。人も金もかかる「上演」によってはじめて受け継がれていくハードルの高さ。そんなことを100年も200年も続けられてきた、古典の魅力とは何なのだろう。

コンテンポラリー・ダンスの「コンテンポラリー」とは「同時代」という意味だ。
現代の社会や政治の軋轢や問題点を抉(えぐ)り出す作品も少なくない。
とくにアートの世界には、社会変革のきっかけになる作品もある。
それらはまぶしく輝き、なるほど社会にアートは必要なものなのだと感動する人も多いだろう。

しかし以前も書いたが、100年後も色あせず人々の胸を揺さぶり続ける作品は、時事性や表層を越えて、人間の真実に迫るものだ。
なにより、アートは「なにかの役に立つこと」を目指す必要はない
そう言い出した途端に、アートは「金や権力に近い何か」に変容していくことは、様々な歴史が証明している。
何の役に立つかわからないままに研究されてきたことが、数十年後にノーベル賞を取ったりする、そんなペースでいいのである。

もちろん古典も発表当時はコンテンポラリーだったはずだ。
その時代に発表しないではいられないほど熱く無定型な情熱の発露だったことだろう。
それが生き残って古典と呼ばれるようになったのは、何かの役に立ったからではない。
愚かしさも含めた人の内奥に触れているからである。

コンテンポラリー・ダンスも40年が過ぎ、「名作」といわれるものも出てきた。
やがて古典となるものもでてくるだろう。

それは、長く上演されることがすごいのではない。
時を超えて存在することが、すごいことなのである。

□ ■ □

さて長らくお付き合いいただいた本連載も、次回はいよいよ最終回
「ダンスにおけるLGBTQ+問題」である。

★第17回は2021年9月10日(金)更新予定です

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