ソニア・アロワの言葉で渡仏
「あなた、アメリカに行くのはやめて、パリにいらっしゃいよ」
私のパリ行きを決めたのは、ソニア・アロワさんのひと言でした。小牧バレエ団が戦後はじめてゲストに呼んだのが、ロンドンのフェスティバル・バレエのプリマだったソニアさん。ソニアさん主演の『眠れる森の美女』で私はネズミたちのひとりを踊り、そこで思い切り弾けた演技をしてみせた。それをソニアさんが気に入ってくださったようです。
ソニアさんはブルガリア出身だけれど、お家はパリにあり、お母さまもパリの下町に住んでらした。ソニアさんはお母さまのお家の横に家を借りて、ロンドンとパリを行ったり来たりしていたようです。
ソニアさんが「パリにはママもいるから、あなたの面倒を見るわよ」と申し出てくれて、たったそれだけで私はパリに行くことにした。まだその時点で私は人の言いなりだったのです。
もともと海外へ留学しようという想いがあり、ずっと外国語を習っていました。ただし、当初思い描いていたのは、フランスではなくアメリカでした。
戦争中は、とにかく外国人はダメ、外国の物はダメと国が言い、日本の兵隊さん万歳と言って暮らしていました。けれど、戦争が終わったとたんに国の言うことががらりと変わり、方針も変わった。急にアメリカ、アメリカと言い出して、アメリカの物資やカルチャーがどんどん入ってきた。私が魅了されたのが、ミュージカル映画でした。フレッド・アステアに、ジーン・ケリーの歌とダンスーー。アメリカの芸術に大きなあこがれを抱くようになりました。アメリカに行きたい、ニューヨークに行こう、と考えるようになりました。
父が親しくしていた生活評論家の吉沢久子先生のお姑さんが元大使夫人で、英語とフランス語とスペイン語もちょっと話される。アメリカに行きたいと思い立ち、お姑さんに英語の個人レッスンを受けに週1回通うようになりました。
けれどある日、映画『美女と野獣』を観たら、すっかり魅せられてしまった。フランス映画です。とてもすてきで、しかもちょっと文学的です。何回観たでしょうか。その話をお姑さんにしたら、「フランスもいいわよ」と言う。お姑さんは大使夫人としてフランスにも行ったことがあり、フランス語もおできになる。じゃあということで、英語をやめて、フランス語を教わるようになりました。
ソニアさんのひと言でパリ行きを決めた。ただフランスに留学しようにも、当時は民間で勝手に行くことは許されない時代です。まず外務省で留学許可の試験を受ける必要がありました。お姑さんの個人レッスンに加え、日仏学院でも勉強し、フランス語に磨きをかけました。外務省でフランス語の試験を受け、少し踊ってみせて、留学許可をもらっています。
渡航許可は出ても、官費として補助されるのはひと月2万5千円で、残りは私費です。私費はやはりひと月に2万5千円までと決まっていて、父が外務省にお金を支払うと、外務省がそれをフランにかえて私に送るという仕組みです。けれどそれだけだと生活はギリギリです。大学で学ぶ一般の留学生はそれでまかなえたとしても、私はレッスン代のほかに舞台を観に行くのでお金がかかります。
私がフランスに行くと、父は神楽坂の自宅をアメリカの家族に貸して、自分は神田三崎町にあった出版社の2階に移り住んだ。神楽坂の家は広く、その家賃を私に送金してくれました。といっても外務省の許可が出るのは2万5千円まで。そこで店子のアメリカ人に頼み、親戚のような形にしてアメリカからドルで送金してもらうよう話をつけた。アメリカとフランス間の送金は自由だっので、それで何とかなった。とてもスペシャルなルートです。お金が必要だと私が言うと、父がアメリカ経由で送金してくれて、そのおかげで私もいろいろな舞台を観に行くことができました。
ソニアさんを頼りにパリへ行きました。ソニアさんのお母さまとも仲良くなって、住むところを紹介してもらっています。本当によくしていただきました。お母さまに「娘が日本からお土産に買ってきたしわ取りクリームが気に入った。これをつけるとしわが伸びるの。ぜひ取り寄せてほしい」と頼まれたことがありました。私は早速父に手紙を書き、いつものお礼にと1ダース送ってもらっています。
人生を決めたマダム・プレオ
フランスでは何人かの先生にバレエを習いました。なかでも最も影響を受けたのが、オルガ・プレオブラジェンスカヤ先生。オルガ先生との出会いが、その後の私の人生を決めたのです。
オルガ先生はロシア出身で、もともとレニングラードのプリマだった方。ただバレリーナとしては長い間不遇の時代を送っていたそうです。というのも、オルガ先生は背が低すぎた。コール・ド・バレエに入るとバランスが乱れてしまいます。目立たないよう常に一番後ろで踊るばかりで、すごく悩んでいたそうです。ところがある日公演の本番直前に、主役が急病で出られなくなるというハプニングが起きた。バレエ団が困っていたら、オルガ先生が「私がやります。踊れます!」と手をあげた。それでパーフェクトに踊ってみせた。その後ソリストに昇格し、やがてプリンシパルに就いた。コール・ド・バレエから全ての階級を経て、最高位を自分の手でつかみ取った。ロシア国内はもちろんヨーロッパ各地で大成功を収め、世界中に名を馳せるバレリーナになった。そしてロシア革命でソ連が成立すると、パリへ移住し、バレエ教師として活躍するようになりました。
93歳のバレリーナ 雑賀淑子(7)につづく。
プロフィール
雑賀淑子(さいが・としこ)
1932年8月11日生まれ。9歳より彰城秀子のもとでモダンダンスをはじめる。戦後小牧正英バレエ学園でバレエを学び、小牧バレエ団入団。その間パリへ留学し、オルガ・プレオブラジェンスカ、ビクトル・グゾフスキー、ルネ・ボン等に師事。振付をネリー・ブーシャルドに学ぶ。小牧バレエ団を退団後、サイガバレエ研究所及びサイガバレエを設立。ステージ・テレビ等で古典及び創作バレエの上演、また各地で様々なパフォーマンスを繰り広げている。サイガバレエ研究所主宰。舞踊作家協会理事、(一社)青少年音楽協会理事。https://www.saiga-ballet.com
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