93歳のバレリーナ 雑賀淑子(5)

バレエとお金

 私は高校卒業後、お茶の水の文化学院に進学しました。なぜ文化学院にしたかというと、どんなに休んでも大丈夫な学校だったから。校長先生がとてもいい方で、事情を話したら私を受け入れてくださった。バレエをやりつつ空いているときだけ学校に来ればいい、ということです。一応籍は文化学院に置いてはいたけれど、行くのはほとんどバレエ団で、学校に顔を出すのは暇なときだけ。一度レポートを出しに行ったら、先生に「あまり見ない顔だね」と言われてしまったくらい。学校にはほとんど行かなかったけど、ちゃんと卒業証書をくれました。

 私はバレエに夢中になり、父も応援してくれました。父は芸事や芸能、芸術に対して理解がある人でした。とても協力的で、むしろ甘いくらい。私が舞踊をしているのがうれしくて、私がどんなにバレエにお金を使っても、嫌な顔ひとつせず出してくれました。それで私も踊ってこれたところがありました。

 娘の私だけではなく、文学青年たちの助けにもなっていたようです。父が亡くなってから、「あのときお金を出してくださってありがとう」「いつも飲みに連れていってくださってありがとう」と書かれた手紙がたくさん出てきました。売れない文学青年たちからのお礼状でした。

 父は出版社を経営していたけれど、もともと文学青年で、小説書きになりたかったそうです。父にとってはいつか小説家になるのが夢だった。父は98歳まで現役で働きました。引退したとき、「もう出版社の社長を退いて、時間ができのだから、思う存分小説が書けるじゃない」と言ったら、「俺には才能がないってことがわかった」とこぼしていましたね。父は103歳まで生きました。

 私は父のおかげで恵まれていたけれど、当時はバレエを踊りたくても、お金がない子がたくさんいました。いろいろなアルバイトがある今とは違い、簡単にお小遣いを稼げる仕事はありません。

 ある日稽古場に行くと、友だちが「大変大変!」と騒いでいます。「新宿駅で靴磨きをやってる女の子がいて、ちょっと顔を見たらね、××さんだったの」と言います。同じクラスの仲間でした。彼女はきっと自分で稼がなければならない環境だったのだと思います。

 お金のためにバーで働く女の子たちもいました。そのうちのひとりは耳が悪く、大きい声でしか話せない。バーで勤まるのかと思っていたら、「バレエ子ちゃん」とお客さんにあだ名をつけられ、可愛がられているとのことでした。もうひとりは田舎から出てきた大人しい子で、群舞を踊っていましたね。ある日の稽古終わりに、二人が更衣室できれいにお化粧をして着飾っているのを見かけました。「あなたたちそんなめかし込んでどこへ行くの?」と聞くと、「これから集金に行くの」とのことです。月末になると、お客さんの会社へ行ってはツケを回収する、それもホステスの役割です。

 子どもたちにバレエを教えていた人もいました。彼女は私よりも年下で、まだ高校生です。実家に余裕がなく、自分で稼がなければバレエを続けられないと言います。近所の幼稚園を借りて教えはじめたら、生徒がたくさん集まった。月謝が入るようになって、バレエの費用にあてながら、親にも少しお金を渡していたようです。彼女はダンサーとしてしばらく踊った後、指導者に転向し、娘さんを立派なバレリーナに育て上げました。

 彼女たちが特別なのではなく、当時はそういう時代でした。昔はバレエというと、やはりお金持ちのすることだったのです。

 なかでもケタ違いのお嬢様が貝谷八百子さん。八百子さんは九州の生まれで、お父さまは日本でも有名な事業家でした。

 東勇作さんに聞いた話です。東さんは八百子さんに個人レッスンを頼まれていて、彼女のお宅に通って教えていたそうです。個人レッスンが終わると、マネージャーのおじさんが都度都度レッスン代を払ってくれる。それもかなりの高額です。ときにはお宅へ行っても八百子さんがお昼寝していることがあって、そうするとマネージャーさんが「今日はレッスンはいりません」と言いながら、レッスン代をくれようとする。東さんは「今日はいりません」と断るのだけれど、「せっかくいらしてくださったんだからお持ちください」と渡されたそうです。ほかにも何人か友だちの男性ダンサーから聞いた話で、「八百子先生元気ですか?」とお宅に顔を出すと、必ずご祝儀をくれたとか。そのくらいお金持ち。

 八百子さんの親御さんがお金を出して、歌舞伎座で2回リサイタルが開催されました。私も観に行ったけれど、これがすごかった。もちろん主演は八百子さん。有馬五郎さんが王子を踊り、歌舞伎の回り舞台の上でアントルシャ・カトルをひたすらしています。有馬さんは1カ所にいるのだけれど、舞台が回って、いろいろな情景が流れていく、という仕掛けです。

 ただ歌舞伎座の裏方さんたちが、みなさん怒ってしまった。伝統ある歌舞伎座で、変な衣裳を着て、女に脚を出して踊ってほしくないということです。そのときの舞台監督は田中好道さん。舞台稽古のとき、上から宮殿の場面のシャンデリアが田中さんの横にガシャーンと落ちてきた、という事件が起きた。わざと落としたのです。プロの大道具さんたちですから、ケガがないよう肩すれすれにうまく落とした。「でもあんな怖いことなかったよ」と田中さんは言っていましたね。本番は何事もなく無事に終えています。

 歌舞伎座でのリサイタルにかかった費用は今の時代に換算すると億は下らなかったと思います。もうスケールが違います。そんな彼女に対していろいろ言う人はいたけれど、私はとてもいいと思った。彼女は表現力が非常に優れてる。古典作品だけでなく、創作バレエも決して悪くありませんでした。『シェヘラザード』なんてもうすばらしかった。

 ある日、若い男の子が八百子さんの舞台で主役に近い役を踊り、「へー、あんなダンサーがいたんだ」なんてみんなで言い合ったことがありました。踊りはまだ途上だったけれど、なかなかのハンサムで、背も高く、舞台映えがします。すると八百子さんは彼と結婚された。もともと八百子さんの生徒のひとりだったようです。彼は外務省で働いていて、私がルーマニアからダンサーを呼んだとき、滞在許可の件で彼にお世話になったこともありました。

 評論家の山野博大さんと俳句の会をはじめたとき、八百子さんにも声をかけています。八百子さんはとてもよろこんで参加してくださいました。八百子さんは非常にいい俳句をつくられるのです。みんなで集まっては、お酒を飲んで、騒いで、最後に句を発表しあって、いい時間を一緒に過ごしました。

 八百子さんはがんを患い、晩年は体力がだいぶ落ちていたけれど、それでも欠席は1度もなし。「もっとしょっちゅう会をやってくれないと、私もうじき死ぬんだから」なんてせっつかれたものです。

 八百子さんは正真正銘のお嬢様でした。すごくいい方で、私は大好きでした。

 

93歳のバレリーナ 雑賀淑子(6)につづく。

 

プロフィール

photo:Ayano Tomozawa

雑賀淑子(さいが・としこ)

1932年8月11日生まれ。9歳より彰城秀子のもとでモダンダンスをはじめる。戦後小牧正英バレエ学園でバレエを学び、小牧バレエ団入団。その間パリへ留学し、オルガ・プレオブラジェンスカ、ビクトル・グゾフスキー、ルネ・ボン等に師事。振付をネリー・ブーシャルドに学ぶ。小牧バレエ団を退団後、サイガバレエ研究所及びサイガバレエを設立。ステージ・テレビ等で古典及び創作バレエの上演、また各地で様々なパフォーマンスを繰り広げている。サイガバレエ研究所主宰。舞踊作家協会理事、(一社)青少年音楽協会理事。https://www.saiga-ballet.com

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