93歳のバレリーナ 雑賀淑子(1)

戦時下のモダンダンス

 大阪で生まれ、6歳のとき家族3人で東京へ越してきました。母は私が8歳のとき、結核で亡くなっています。32歳でした。ひとりっ子だった私は、以来父と二人きりの生活を送るようになりました。父が会社へ行くと、私は家でひとりきり。ずいぶん寂しい思いをしたものです。

 父は鳥取県生まれで、母は広島県生まれ。大阪の教会で出会い、結婚したそうです。父は国鉄の検車区に勤め、『検車界』という職員に配る雑誌の制作を手伝っていました。その後『検車界』を国鉄からもらい、独立。上京後、出版社をはじめています。

 上京したばかりのときは要町で暮らしていました。池袋のそばですが、当時は静かな郊外といった雰囲気でしたね。ただ都会風の場所が好きな母の希望で、早々に大森に引っ越しています。母が引っ越し好きで、要町にいたのは結局一年弱でした。

 ダンスをはじめたのは、母が亡くなった年のこと。私は9歳になったばかり。戦時中のお話です。

 あのころは食べ物がほとんどなく、食料は国が配り、それで賄うことになっていました。「来週は大根が1本配給になります」と政府から通知があると、回覧板で回ってきます。7〜8件ずつの家がグループになった隣組があり、回覧板にひと通り目を通したら、また隣組の組長さんの家に持っていく、という仕組みです。

 ある日父に「回覧板を持っていって」とおつかいを頼まれた私は、素足に下駄を履き、隣組までカランコロンと走っていきました。隣組のお宅でママさんに回覧板をわたすと、「あなた、舞踊を習いにいらっしゃい」と言われ、私はその場で「はい!」と答えています。また走って家に帰り、父に「舞踊を習いに来なさいって言われたよ!」と伝えました。

とはいえ、舞踊が何なのかなんて知りません。子どもは大人の言うことを全部聞かなければいけないという教育を受けていて、私もそれに従っただけ。父も「そう言われたなら行ってきなさい」ということで、翌週からダンスを習うことになりました。

 隣組のママさんは舞踊家の彰城秀子先生のお母さまでした。彰城先生は現代舞踊家の高田せい子先生の一番弟子だった方です。彰城先生の稽古場は有楽町にありました。贅沢なことに、先生は帝国劇場の楽屋のお稽古場を借りてらした。普通の人が借りられるものなのか、何か理由があったのかもしれません。とてもきれいなお稽古場でした。

 レッスン日がくると、私はまず彰城先生のお家へ走っていきます。すると先生は私の手を握り、大森駅から電車に乗って一緒に稽古場へ向かいます。二人とも防空頭巾をかぶり、血液型を記した布を胸につけています。ひとたび空襲警報が鳴ると、先生と手をつないで防空壕に飛び込むのです。

彰城の教室で

 彰城先生のレッスンはモダンダンスでした。けれど時は戦時下で、外国の音楽は禁止され、使うのは主に軍歌です。ただドイツとは同盟国ということで、ドイツの曲は許されていましたね。

 まずストレッチをして、軍歌で踊る稽古をします。国民歌謡をかけては、「雲湧けり、雲湧けり、」と棒を持って踊ったものです。正直なところ、モダンダンスはさほど好きではありませんでした。大人がやれと言うからただ続けてた、そんな感覚でした。

 彰城先生の稽古場に、とても上手なおチビちゃんがいました。彼女は歳下だったけれど、私より先にお稽古をはじめていて、そういう意味では先輩です。おチビは森嘉子ちゃん。嘉子ちゃんとはすっかり仲良くなりました。

 戦争中は、学校の授業も通常とは違ってました。校庭にアメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチル首相を描いた板が置いてあり、槍を持って走っていって、それを突くのが体操の授業。そういう教育を受けていた。子どもですから、歴史の実感も何もなく、お国の言う通りにしていただけの話です。

 戦争中は食べるものにもことかきました。枕をほどいて中に入っていたあずきやそば殻を茹でて、父と二人で食べたこともありました。あずきはまだしも、そば殻はマズかった! 庭になった葉っぱも湯がいて食べました。食べられそうなものは何でも食べたけど、朝顔の葉を食べたときはお腹を壊してしまいました。あれはやめた方がいいですね。

 戦禍が烈しくなってくると、ダンスなどやっている場合ではなくなり、彰城先生は軍需工場へ働きに行きました。若い女性はみんなそこで軍服を縫ったりしていたのです。父は出版社を経営していたけれど、紙の配給が途絶えてしまった。することもなくなり、小学校5年生のとき、父と二人で富士山のふもとの駿東郡須走村字八瀬尾へ疎開しました。須走村から4㎞ほど離れた山の中の一軒家で、もともと印刷所の別荘だったものを父が購入しています。田んぼが一反と畑も少しついていて、少し行くと川の中にわさび畑がありました。もう飢えることはなくなりました。

 小学校を卒業すると、御殿場の農業学校に入りました。家から学校まで10㎞の距離です。朝5時、まだ空が暗いうちにちょうちんを提げて家を出て、山道をひたすら歩いて学校を目指します。

 戦争が終わったのは中学1年の夏でした。疎開先にいたころです。戦争が終わったからと、久しぶりに学芸会を開くことになりました。何かやれと言われて、私は彰城先生に教わった「雲湧けり、雲湧けり」をみんなの前で踊っています。

 父と二人で東京に戻りました。彰城先生のお教室も再開していて、またレッスンに通うようになりました。けれど、それからが大変でした。

彰城秀子の教室で。雑賀(2列目左から3番目)と森嘉子(右隣)、彰城(3列目左から4番目)

 

93歳のバレリーナ 雑賀淑子(2)につづく。

 

プロフィール

photo:Ayano Tomozawa

雑賀淑子(さいが・としこ)
1932年8月11日生まれ。9歳より彰城秀子のもとでモダンダンスをはじめる。戦後小牧正英バレエ学園でバレエを学び、東京小牧バレエ団入団。その間パリへ留学し、オルガ・プレオブラジェンスカ、ビクトル・グゾフスキー、ルネ・ボン等に師事。振付をネリー・ブーシャルドに学ぶ。小牧バレエ団を退団後、サイガバレエ研究所及びサイガバレエを設立。ステージ・テレビ等で古典及び創作バレエの上演、また各地で様々なパフォーマンスを繰り広げている。サイガバレエ研究所主宰。舞踊作家協会理事、(一社)青少年音楽協会理事。https://www.saiga-ballet.com

 

 

photo:Ayano Tomozawa

 

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