バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第17回〉ダンスにおけるセクシュアリティとLGBTQ+ 〜「本当の愛」は、「本当の自分」の中にあるよ〜

“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスにおけるセクシュアリティとLGBTQ+ 〜「本当の愛」は、「本当の自分」の中にあるよ〜

いよいよ最終回である。
身体芸術であるダンスにおけるセクシュアリティは、きわめてデリケートで本質的な問題だ。
古典でもコンテンポラリー・ダンスでも、生きることのアクチュアリティを追求している以上、愛と性の問題は避けては通れない。
それらは隠すべきものとされてきた時代もあったし今も表向きはそういうことになっているが、ダンサーが自分の身体のリアルを突き詰めていけば、とうぜんぶち当たる壁である。

なぜならそれは単なる情欲のみならず恋愛や友情や、家族愛、ひいては人類愛にまで波及していくからだ。さらにそのエネルギーがマイナスに転じれば、嫉妬や暴力や支配といったダークな方向にまで広がっていく。
そしてこの両者の葛藤こそ、古来から現代まであらゆる芸術の原動力になってきた。

もうひとつ重要なのが、ジェンダーやLGBTQ+(性的マイノリティ)の問題である。本人にとって重要な問題であると同時に、社会的な差別(生活上の不利益、ときに直接的な暴力など)という意味からも、アート全体の重要な課題になっている。
むろんみずからの身体をメディアとして表現するダンサーにとっては、「生活する身体」「踊る身体」は不可分であり、より切実な問題とならざるを得ない。

本稿ではダンスにおける「セクシュアリティの表現」「ジェンダーとLGBTQ+の表現」について見ていこう。

ダンスにおけるセクシュアリティの表現

●セクシャルな表現

中世以降、ほとんどの西洋美術がキリスト教の影響下で性的表現は押さえられたが、ルネサンス以降はギリシャ・ローマ神話に登場する神々のヤンチャすぎる所業も暗喩や象徴で描かれるようになった。
ミシェル・フーコーが言うように、本質的に人は性的なことを隠したい気持ちと語りたい気持ちの、相反する衝動を持っているのだろう。

たとえばバレエにもよく使われる白鳥も、絵画や彫刻ではギリシャ神話で「美しいレダを誘惑するためにゼウスが白鳥に変身した」ことが画題となっている。その多くはレダが白鳥の長く伸びた首を優しく愛撫するなどの暗喩が多く描かれている。

そして拙書『ダンス・バイブル』に詳しいが、モダンダンス(バレエ以外の新しい芸術的ダンス)の誕生には、紳士淑女が通うミュージックホールはもちろん、オリンピック内のアトラクションとしてもストリップティーズ(サリー・ランドなど)が重要な役割を果たしてきた。切っても切れない仲なのである。

そこでダンスにおけるセクシャルな表現を、以下の3つに分類してみよう。

〈ダンスに見るセクシャルな表現〉
  • その1:愛情の結果として
  • その2:欲望の結果として
  • その3:暴力の結果として

●その1:愛情の結果として

最もオーソドックスな表現といえる。

『ロミオとジュリエット』の第3幕で、初めての夜を共に過ごした二人がベッドの中で目を覚ますなど、一対一の関係から、愛情の交歓が描かれる。

そして第4幕では、ジュリエットが仮死状態で横たえられた地下墓地の棺桶台はベッドを想起させる。
短剣でみずからの身体を貫き、互いの死をもって結ばれるラストは、エロス(愛)とタナトス(死)のひとつの完成形といえるだろう。

●その2:欲望の結果として(個人的なもの)

性的な欲望は、本来的にカオティックなものなので、欲情が爆発することもあれば、生殖を含めた「生きることの根源的なエネルギー」に昇華することもある。

「個人的な欲望の暗喩」としての名作はバレエ・リュスでミハイル・フォーキンが振付けた『薔薇の精』である。
舞踏会から帰ってきた乙女が、肘掛け椅子でまどろんでいる。手にした一輪の薔薇が床に落ちる。それは舞踏会で好意を寄せる相手から手渡されたものかもしれない。すると官能的な香りが受肉したかのように肉感的な薔薇の精が現れて、二人はワルツを踊りはじめる。
まだ未分化な乙女の恋の衝動が、薔薇の精とのワルツという形をとっているのだ。

初演時は、乙女にタマラ・カルサーヴィナ。技術はもちろんだが、可憐な容姿と、私生活でも派手さを好まない清純な真面目さが、当時のパリで人気を高めていた。

対する薔薇の精はヴァスラフ・ニジンスキーである。第13回「ダンスにおける『美しさ』問題」でも触れたように、蠱惑的な衣裳だ。天才的な跳躍力を誇るニジンスキーの太ももは写真で見てもむっちりしている。
ジャン・コクトーがこの乙女を「愛すべき生け贄」と評しているのは両者の力関係からもっともだが、じつは乙女が「自分を奪いに来る存在としての薔薇の精」を欲望し、夢想のうちに召喚したともいえるのである。

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『薔薇の精』タマラ・カルサーヴィナ、ヴァツラフ・ニジンスキー

●スキャンダルを呼んだ『牧神の午後』

同じバレエ・リュスでもニジンスキーが振付け踊った『牧神の午後』は、より直接的な表現で一大スキャンダルを巻き起こした。
水遊びをするニンフ達に逃げられた牧神が、残された布を愛撫し、その上に身を横たえる。そのまま自慰をし、絶頂を迎えて終わる。
これは詩人マラルメの『半獣神の午後』からインスピレーションを得てドビュッシーが作曲した『牧神の午後への前奏曲』に振付けたものである。

牧神(パン)は半身半獣で好色・絶倫の象徴である。パンに追いかけられた美しいニンフが純潔を守るため、捕まる直前にみずからの身体を葦に変えてしまったギリシャ神話は有名だ。パンがいつも吹いている葦笛はそれであり、ドビュッシーの曲でも笛(フルート)を中心に構成されている。

つまり初演当時の観客も、「牧神」というだけである程度の予想はついていたわけだが、それでもラストの行為には紳士淑女の皆さんから「汚らわしい!」「いやこれこそが新時代の芸術だ!」と賛否両論が巻き起こった。
ちなみに「パンの雄叫びは聞いたものを混乱状態に陥れる」とされ、パニック(panic)の語源なのだが、みごと混乱を引き起こしたことになる。

とはいえ、両作品とも、現代でも普通に上演される。
コンテンポラリー・ダンスでも、追いかけられるニンフをスポットライトで表したり、美少年を追い回すおっさんに置き換えたりと色々なヴァージョンがある。

●重要性は減る一方だが

とはいえ、現代人の性的嗜好は激変している。
日本でも20代男性の40%は性交渉がないなど、「若者の性欲離れ」が定期的に報道される。
また他人に性的魅力を全く感じない「アセクシュアル」という特性も徐々に認知されてきた。
それは病気だとか、可哀想な存在などではなく、たんにそういう生き方、感じ方がある、というだけのことだ。

フロイト以降、我々は、恋愛感情や性衝動に重きを置きすぎたのかもしれない。
「全てのハリウッド映画は恋愛映画だ」という言葉があるが、オペラもバレエもたいがいそうだ。
これからのアートは、恋愛の呪縛から解放するための作品が増えてくるかもしれない。
そういう意味でも、恋愛の成就よりも自慰での満足を約100年も前に(初演は1912年)描いて見せたニジンスキーは、やはり天才というほかはない。

●その2:欲望の結果として(昇華されたもの)

欲望といっても個人的なものではなく、集団で、昇華された形で描かれるものもある。

『春の祭典』は、本来ロシアの春の到来を祝って大地の神に生け贄を捧げるものだが、モーリス・ベジャールは鹿の交尾から想を得て、「男集団と女集団との交わり」という形で描いた。
それにより、一対一の個人的な関係ではなく、社会や生物が持つ荒々しい性/生のエネルギーを描こうとしたのだ。

おなじベジャールの『ボレロ』では、真っ赤な丸い盆の中央で踊る女(メロディ。男性が踊ることもある)の周囲にいる男達が、一人また一人と吸い寄せられていく。自分に向けられている男達の欲望を一身に受け止めて、最後は恍惚のクライマックスを迎える。

ちなみにベジャールの『春の祭典』と『ボレロ』のラストはともに「集団の欲望が円形に高まってきて最後、中心から虚空に放たれる」という形である。

●その3:暴力の結果として

ときに人間や社会に潜む暴力性を表現するために、あえてセクシャルな表現を使うときがある。

アンジェラン・プレルジョカージュは、バレエファンにとっては世界バレエフェスティバルなどでよく演じられるオシャレな作品『ル・パルク』でお馴染みかもしれないが、初期の自作においてはバリバリのド変態ぶりを発揮していた。

初来日の『肉体のリキュール』は、舞台上にガチャンガチャンと大がかりだがピストン運動を繰り返す機械が蠢く作品。直接的な暴力ではなく、機械の無慈悲な力や音で、エロティシズムや暴力性の衝動を優れて美的に表現していた。最後にはそこを突き抜けて強烈なリビドーが発散されるが、フランスのカンパニーらしく、オシャレさを失わない(『春の祭典』では、かなり力ずくの表現もあったが)。

安易にエロティシズムを扱うことは、女性を性的搾取してきた歴史に加担することにもなりかねない。しかし意外に若い女性振付家が無頓着に花魁やバニーガールの衣裳を使ったりしていることもあり、教育の重要性を痛感するばかりだ。

いずれにしろエロティシズムを扱うときには、ガッと本質をつかみとり、引きずり出して叩きつけるくらいの豪腕でなければ、チンケなポルノの再生産になるだけだ。

性的な情動を、生きる根源にまで昇華する力量が必要なのである。

社会から背負わされる:ジェンダーの表現

●ダンスにおける女性の立場の変遷

以上のセクシュアリティとは本人の情動によるものだが、「男らしさ・女らしさ」あるいは「男のくせに・女のくせに」など、社会によって各性別に負わされている役割がジェンダーである。
とくに女性はセクハラやパワハラを受けやすく、さらに出産・子育てなど「母として○○するべき」という負担を一方的に背負わされてきた。

クラシック・バレエにおいて女性が男からひどい仕打ちを受ける話が多いのも、女性の社会的な地位の低さに加えて、「女性は考えが浅いためだまされやすく、感情的になりやすい」という偏見が加担している(実際にはすぐに殴るような「感情的な行動」は男性のほうが多いのだが)。

男を魅了してついには破滅させてしまう女性の物語、いわゆる「ファム・ファタール物」にいたっては、入れ込んでしまう男の愚かさを棚に上げ、「魔性の女」だとすべてを女性のせいにして男はみずからを哀れむ始末。これは様々な宗教が「男性を堕落させる存在」として女性を規定してきたことも影響しているだろう。

ロマン主義の中では、女性は概ね弱い存在であり、しばしば男性同士の争いの勝者が手に入れるトロフィー的な存在として描かれる。
しかし現代では『オネーギン』のように反撃に転じる物も出てきており、めでたいことである(タチヤーナの幼い恋心を踏みにじった高慢なオネーギンが、最後に落ちぶれてすがってくるが見事に拒絶される)。

●ジェンダーを逆手に取る ローザスとエック

女性の身体は、長いことポルノや芸術やエンタテインメントを通して、「商品」として鑑賞・流通されてきた歴史がある。

そのため女性ダンサーの中には、自分の作品に入る前に、顔立ちやプロポーション、髪の長さや胸の大きさなど、本来どうでもいいはずの「社会的な女性の身体の認識」から、まずは自分を引き剥がす必要があるという人もいる。

ベルギーを代表する「ローザス」は、そういう「社会的な女性の身体の認識」を、あざやかに逆手にとっていた。
『ミクロコスモス』『ローザス・ダンス・ローザス』など初期作品では、20代の女性ダンサーが回転して、黒いフレアなスカートをなんの衒いもなくフワッと捲り、白い下着が見えるのも気にせずに踊った。

むろんそこには媚びなど一切なく、白刃の上で踊るような緊張感が満ち満ちている。
「こんなものにドキッとするほうがバカじゃん」
と言わんばかりの視線が、じつに冴えていた。

さらに『アクターランド』では「上半身はシャツ、下半身は下着」という姿のまま、男女で踊らせた。この「男女」というところがミソだ。
女性ダンサーはセクシーなのだが、男性はズボンがないだけで、じつにマヌケな姿になってしまうのである。
社会的に幅を利かせている「男らしさのコード」の脆弱さを、端的に暴き出していた。

ちなみに、男女ともにダンサー達は、スーツ姿でも、ごついヒザ当てをしたまま踊っていた。
主宰のアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケル「舞台上で隠し事はしない。全て見せる」という方針だという。カッコいい。

マッツ・エック『ベルナルダの家』は、スペインの詩人ロルカの戯曲『ベルナルダ・アルバの家』をダンス化したもの。
封建的かつ強権的に子どもたちを支配する母親の役を、あえて身体の大きな男性に演じさせていた(演劇でも男性が演じる)。

「子どもを意のままに動かそうとする男性的な暴力性」が、「優しさ・母性愛」といったジェンダーの仮面をまとう。そのため、より強く子どもたちを締め上げようとする暴力性が不気味さと威圧感を増していくのだった。

ダンスにおけるLGBTQ+(性的マイノリティ)

●LGBTQ+は、むしろ社会との問題である

さて性的な問題であっても、LGBTQ+は少し違う。その作品の多くは、性的マイノリティの人々が受け続けている様々な偏見や迫害についてのものだ。

これは同性愛を公言していたフレディ・マーキュリー率いるクイーンの曲『伝説のチャンピオン』で歌われる「罪なくして罰を受けてきた」という言葉につきると思う。
「普通じゃない」とされ、ときに病気や性犯罪者予備軍のような視線を向けられる。実際にはなんの罪を犯していなくても、ただただ「罰」を加えられ続けるのだ。

よくテレビやドラマでこの歌をスポーツの優勝シーン等で使っているが、短絡的すぎる。歌詞の中にはスポーツやレースなどは出てこないのだ。なにより「We are the champions」とチャンピオンが複数形なので、ボクシングのチャンピオンなどとは違うことも自明である。
「罪なくして罰を受けてきた人々」にとって、「オレ達はチャンピオンなんだ、誇りを持とう」という呼びかけとして響く歌なのである。

先般の東京オリンピック・パラリンピックでも、みずからのゲイ・セクシャリティ等をオープンにする選手が増え、多様性が浮き彫りになった。
本来はそんなプライベートなことを公開する必要はないのだが、彼らを取り巻く状況の困難さがそうさせるのだ。

つまり、LGBTQ+の作品とは、個人の愛情がどうこうというよりも、「彼らを取り巻く社会との関わり方」が大きなテーマとなってくるのである。

●LGBTQ+とは?

ここでLGBTQ+について簡単に解説しておくと、

〈LGBTQ+について〉
L レズビアン
G ゲイ
B バイセクシャル
T トランスジェンダー
Q クエスチョニングまたはクィア
+ 多様さ

「クエスチョニング」とは、自分の性自認や性的嗜好が決められなかったりわからない、決めたくない等で未確定の状態のことである。

「クィア」とはもともと侮蔑的な意味合いで性的マイノリティに使われていた言葉を、あえて自分たちで使うようになってきたもの。

「+」は、人の嗜好は細分化してもきりがないので、様々なことにオープンでいよう、ということである。
このへん、新しいダンスが出てくるたびに「モダン(新しい)ダンス」→「ポスト(次の)モダンダンス」→「ポストポスト(次の次の)モダンダンス」と言い出して収集がつかなくなり、「コンテンポラリー(同時代の)・ダンス」と総称しだしたのと似ている。

●ダンサーへの偏見も根強い

これだけ男性ダンサーが活躍する世の中になっても、ダンスとくにバレエは「女がやるものだ」という偏見は根強い。
名作『リトル・ダンサー』でバレエをやりたいというエリオット少年に、炭鉱労働者の父親は「男がバレエなんてみっともない」と大反対するシーンを覚えている人も多いだろう。

それでなくてもダンサーに対する偏見とステレオタイプな理解のされ方は続いている。

もちろんバレエ・リュスを率いていたセルゲイ・ディアギレフや、モーリス・ベジャール、マシュー・ボーン、マルコ・ゲッケなど、オープンリー・ゲイの優れたダンサー・振付家はいる。
だがこれは「人類の一定数は同性愛者がいる」というだけのことにすぎない

にもかかわらずいまだに映画やドラマでは、「芸術的な仕事をしている男性」が女性的なキャラで描かれる例は後を絶たない。それどころか「ゲイだから男女両方の気持ちがわかるんだね」とか「男性でも女性特有の繊細さが必要な仕事だから」という「理解」「好意」を示しているつもりの差別が、何度も再生産されてきた。

これを「マイクロ・アグレッション(意図的かどうかを問わず、日常的に発せられる差別的な言動)」というのだが、もっと広く認知されてほしいものだ。

●同性愛嫌悪にAIDSが拍車をかけた

日本では実感できないかもしれないが、海外では同性愛者というだけで殴りつけたり、ひどいときにはリンチや殺人まで起こる同性愛嫌悪(ホモフォビア)がある。
また宗教的な戒律が浸透している国では、違法とされることもある。先進国である中国やシンガポール、インドでも、ダンス公演前に内容については当局に申請して認可が必要なのだが、同性愛的な内容はまず通らない。そこで様々なカムフラージュ(同性愛者襲撃事件を、単に「殺人事件についての作品です」と申請するとか)の作戦が練られている。

同性愛嫌悪者は、それが社会の秩序を守るのだと信じていることも多い。
人気のバレエダンサー、セルゲイ・ポルーニンが同性愛嫌悪の発言をして問題となり、パリ・オペラ座バレエが彼の出演をキャンセルしたことが報じられた。
もちろんヨーロッパ文化の源流であるギリシャ・ローマ文化でも、最も戦乱がなく文化が花咲いた日本の江戸時代でも、同性愛は寛容に受け入れられており、社会の秩序には関係ない。

しかし1980年代には、世界的に流行したAIDSが「同性愛者の病気だ」という誤解によって、悪意に拍車がかかった。オープンリー・ゲイのアーティスト(有名なダンサーも含まれていた)がAIDSで亡くなるとニュースでも大きく取り上げられた。

するとこれに抗議するように、ダンスの世界でもゲイをテーマにした作品が多数創られた。とくにイギリスは「パンクバレエ」と呼ばれたマイケル・クラークや、マシュー・ボーンDV8など「気の利いたヤツはみんなゲイ」というくらい、名作が多々生み出されたのである。
まさに「LGBTQ+は社会との問題」なのだ。

マシュー・ボーンは初期の『白鳥の湖』『ザ・カー・マン』など、「悪の魅力をまき散らす男が平和な街にやってきて、男女かまわず肉体関係を持つ」という構造が多い。

ロイド・ニューソン率いるDV8もそうだ。『モノクロームマンの死の夢』は、同性愛者を狙った連続殺人犯デニス・ニルソン事件を扱ったもの。初来日の『エンター・アキレス』も、「なよなよしたゲイっぽいヤツ」が標的にされ追い回される。そのシャツの下にはスーパーマンのTシャツを着ている(アメリカのマッチョの象徴)など、皮肉が効いていた。

イスラエルも、ゲイパレードやゲイ・レズビアン映画祭が開催されるほど、オープンである。街中でも同性同士で手をつないで歩いているのは普通だ。

ずいぶん前にイスラエルのフェスで見た男女のデュオが印象的だった。
男性ダンサーはみずから自分はHIVポジティブ(AIDSは発症していない)だと告白する。
その後の女性とのデュオは、互いに触れあう、とても親密なものだった(汗からは感染しない)。「通常」ならば、それは「男女の恋愛」のダンスと見られただろう。しかしこの二人に関しては、逆に完璧で純粋な「男女の友情」のダンスとして、胸を打ったのである。

公私ともにパートナーであるニヴ・シェーンフィールド&オーレン・ラオールの二人は、一貫してゲイ・カルチャーや社会的な問題を描き、世界的にも高い評価を得ている。『The third dance』は先人の作品の再振付作品だ。
豪勢な花が生けられた花瓶がある。二人はほぼ無表情で、淡々と、ぶつかり合うように互いの存在を確かめあう。最後には全裸になって、花を散らしながら抱き合う。これがポルノにもバカップルのイチャつきにもならないのは、二人がときに孤独に囚われながらも、相手を必要とし求める心情が切実に伝わってくるからだ。全てを晒し、極めて純度の高い愛の物語になるところがダンスの力である。

●日本には少ないLGBTQ+作品

初期の舞踏は様々な固定概念を攻撃し、性的な表現も大胆に取り入れていた。歴史的な作品『禁色』も、闇の中で男が美少年と生きた鶏を追いかけ回す。タイトルは三島由紀夫の男色小説から無断借用したものだ(内容は関係ない)。
ただそれらは旧弊な価値観を撹乱する手段として使っているもので、性的マイノリティとして生きる個人と社会の関係、という図式ではない。

当然日本のダンサーにも一定数の性的マイノリティの人々はいるわけだが、作品化する人は多くはない。
過去を振り返ってもダムタイプの故・古橋悌二や、川口隆夫などごく少数である。

ダムタイプは創立した1980年代から現在に至るまで影響力を持ち続けているアーティスト集団である。設立メンバーであった古橋は、みずからも「ミス・グロリアス」というドラァグ・クイーンとして京都のゲイカルチャーでは有名だった。

しかし古橋はHIVに感染し、当時は「死の病」だったAIDSを発症する。その自分自身を作品の俎上にあげたのが、いまだに記録映像が上映され続ける『S/N』(1994)である。レクチャー&パフォーマンスの形式で、映像の中で古橋はドラァグ・クイーンのメイクをしながら、「AIDSだと告白したら恋人は去って行った」など、死に直面した生/性を赤裸々に淡々と語り続けた。
翌年、古橋はこの世を去った。

ダムタイプでも活動していた川口隆夫の『TOUCH OF THE OTHER』は、アメリカの社会学者ロード・ハンフリースのハッテン場(同性愛者が出会うための場)の研究を再検証するパフォーマンスだ。
公衆トイレの間取りを作って観客に「出会い」を疑似体験させたり、みずからが出演するハッテン場再現フィルムなど、なかなかに振り切った内容で、学術的にも興味深いものとなっていた。

しかしこれらは例外的な存在だ。
もちろん作品化しなくちゃいけないというわけではないのだが、海外のような、暴力的な差別が少ないからだろうか。

たしかに日本のテレビでは女装や「おねえ言葉」のタレントが活躍していて寛容なようにみえる。
しかしよく見ると、いずれもみずからを戯画化して、笑いに変えている人ばかりだ。自分たちが受けてきた差別について怒りをぶつけるようなことは、まずない。
それは日本の社会が、「用意された椅子」におとなしく座っているうちは優しいが、立ち上がって主張をしだすと、手のひら返しで叩きつぶしに来ることを、身をもって知っているからである。
日本は先進国のなかで、国として同性婚を認めていない数少ない国なのだ。

●ストリートダンスの連中は怒っている

しかし意外なところから抵抗の波は来ている。牧宗孝(東京ゲゲゲイ)や、avecooSeishiroなど、ストリートダンスの世界である。また解散してしまったがAyaBambiなども女性カップルであることを公言していた(彼女たちのベースであるヴォーギングは80年代のゲイカルチャーの中で飛躍的に発達したダンスなので、正統な継承ではあった)。
ストリートカルチャーは、その本質として、差別に対して怒りを抱えているものだ。

なかでもavecooの『あべ子といち子』は、女子カップルの愛の物語である。
世間の「目」に晒され、別れを乗り越え、最後には二人ともウエディングドレスを着て結ばれる感動的な作品だ。「レジェンド・トーキョー」で最優秀作品に選ばれた。短く直球だが、希望を感じさせる感性である。

理不尽な目に遭ったら、「私は傷つけられたし、痛かった」と言うべきなのだ。
現代は、「MeToo」「Black Lives Matter(BLM)」のように、長年押しつぶされてきた被害者の声が、徐々にだが連帯して表に出るようになってきた。

企業だけではなく、有名な劇団やバレエ団やダンス・カンパニーといったアートに関わる様々な現場からもセクハラやパワハラなどに声が上がり、被害者を支援しようという動きが出てきている。

「アーティストは変わり者が多いから」という「聖域」は、もう通用しない。
そういう時代ではないのだ。
それはひとり一人が、胸に刻むべきことである。

海外の、戦うLGBTQ+たち

●マッチョで陽気な奴らも

デンマークのHimherandit Productions『The WOMANhouse 38』は強烈な作品だった。
ヘビメタのような革ジャンに黒いヒゲ、チビやハゲ、ノッポで鼻の下ヒゲ、ロン毛といった4人組の愛すべきマッチョなバカどもがやってきて、マイクで「イエーイ!」と騒ぎまくる。
野太い声で「オレの名前はアレックス! 生まれたときから決まってた!」と自分語りを始める。マイクの下にはスイッチャーがあり、声のトーンは高くも低くもなる。

まあ面白いけど飽きてきたよな……と思った頃に、黒ヒゲが服を脱ぎだす。
すると、たわわな乳房が現れるのだ。しかし顔は黒ヒゲのままで、床にぺっと唾を吐く無法ぶりも変わらない。
観客は戸惑いながらも、作品タイトルが「ウーマン・ハウス」だったことを思い出すのである。
むくつけき男達に見えた彼ら/彼女らは、全員女性の身体をもっているのだ。

彼ら/彼女らは膨らんだ胸を晒したまま、相変わらず騒ぎ続けるのだが、さっきまで微笑ましく見ていた客席に、気まずい空気が混濁してくる。
見た目と性が一致していない相手に理解があるつもりの観客(なんといっても世界中のダンスフェスのディレクター達だ)にしても、まだまだ自分が差別意識という沼から抜け出せていないことを思い知らされるのだ。

そしてこの「気まずさ」こそが、彼ら/彼女らが日常的に味わっていることなのだろうと気づく。なぜなら彼ら/彼女らは、日常をこの身体で存在し、生きているのだから。

●戦士・フランソワ・シェニョー

フランソワ・シェニョーは、様々な作品でゲイにまつわる作品を作り、注目されている一人だ。それはつねに社会へのアプローチであり、「私は傷つけられたし、痛かった」という声なき声に満ちている。

ブエノスアイレス生まれのセシリア・ベンゴレアとの『TWERK ダンス・イン・クラブナイト』では、5人のケバい化粧のお姐さん達が爆音ディスコの中でグルグル回転し続ける。徐々にセクシーな衣裳になるにつれ、お姐さん達の股間の「お兄さん」の存在が明らかになってくる。トランス・ジェンダーへの思考へ誘いながら、アートに昇華した形で提示するのである。

ニノ・レネとの『不確かなロマンス―もう一人のオーランドー』は、驚異的な舞台だった。
これはシェニョーとレネがスペインの地方に伝わる古楽や祭礼の中に、脈々と伝えられてきた性的マイノリティの存在をリサーチした結果に基づいている。

そして時代を超えて様々な性で生きたヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』のように、シェニョーは時代の違う三人の人物(少女戦士、サン・ミゲル、ジプシーのラ・タララ)の姿を描きだしたのである。

最初の「少女戦士」は偏見に抗うことなく死を選び、次の「サン・ミゲル」(に自らをなぞらえた者)は同性への恋情に懊悩した。そして美しいジプシー娘「ラ・タララ」では、理不尽な差別に対し、シェニョーははじめて怒りを表に出し、女装を剥ぎ取り、大きなハイヒールは履いたままでみずからの存在を叩きつけたのである。

こういうパフォーマンスに対して、「女装がカワイイ」「ゲイバーのショウみたいで楽しい」といった、エンタテインメントになぞらえて「理解」したつもりになることは、前述した「マイクロ・アグレッション(意図的かを問わず日常的に発せられる差別的な言動)」である。

第14回「ブラック・フェイス問題」で、たとえ好意でもブラックフェイスが許されないのは、黒人が差別と戦ってきた歴史を無視し「ないものにする行為」だからだと書いたが、同じことがいえる。
こうしたパフォーマンスの奥にある「怒り」を受け止めることなく消費することは、LGBTQ+が受けてきた差別と戦ってきた人々の営為を、無にすることに他ならないのである。

●女性の作品は少ない!?

……と、こうして見てきて気づくとおり、ほとんどが男性の側からの作品ばかりである。じっさい女性の側からLGBTQ+を扱った作品と出会う機会は少ない、というのが個人的な実感である。

そんななかでも強烈だったのは、第15回「多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編:後編)」でも書いたフラメンコ・ダンサーのロシオ・モリーナである。コンテンポラリー・ダンスでも高く評価され、ときに「怪物的」とまで評される彼女の『グリト・ペラオ』は、多くの人の度肝を抜いた。

モリーナは同性愛者であることを公表しているのだが、この作品で彼女は人工授精によって妊娠し、7ヵ月で腹が大きくなる時期に合わせて上演したのである。
舞台には恋人のように見える歌手のシルヴィア・ペレーズ・クルーズ、そしてモリーナの実母も登場する。

自分を命がけで産んだ母の話、自らが母となる決意と不安などが語られる。ここには母・娘・恋人・同性愛者……社会が押しつける様々なジェンダーから離れて、女性同士の赤裸々な交流があるのみだ。そして自分を支え家族をつないできたフラメンコが、繰り返し胸を打つのである。

●まとめ:まずは「存在すること」から

バレエ界でもLGBTQ+の改革は進んでいて、ローザンヌ国際バレエコンクールでも数年前からコンテンポラリーのヴァリエーションの課題曲には、「ジェンダーニュートラル」のソロを数曲設けるようになった。
喜ばしいことだが、実際にプロのバレエダンサーとしてキャリアを積む上でどのように導くべきかは、まだまだ議論されているところだ。

オリンピックでも選手のLGBTQ+がオープンになったが、男性の身体で生まれたトランスジェンダーの選手が女性選手として重量挙げで金メダルを獲得したときには、「歴史的快挙」とされる一方「感情的にスッキリしない」という声も多数聞かれた。

こうした問題はこれからも出てくるだろう。

だがこれらは、「超えていくべき新しい課題がでてきた」ということで、大きな進歩と捉えるべきだろう。従来はLGBTQ+の人々は、存在すら認められなかったのだから。
これからも、どんどん議論を重ねていけばいいのである。

コンテンポラリー・ダンスの最も素晴らしい点は、あらゆる人に開かれていることだ。あらゆる身体、あらゆる人種、あらゆる文化、そしてあらゆる個人に対して、ダンスは分け隔てなく開かれている。
だからこそ、コンテンポラリー・ダンスはこれからの時代に最も必要なものだとオレは信じているのである。

●最後に

さて、この連載もいよいよ最終回である。
あまりに濃密な時間を過ごしたこの連載が終わるのが、ちょっと信じられない思いだ。

オレはたまたま20歳代でコンテンポラリー・ダンスの誕生に立ち会って以来、35年以上にわたって日本と海外を飛び回り、多いときには年に10カ国以上をめぐり、誰よりも多くダンスを見てきた自負がある(もちろん評論家の価値は観劇数で決まるものではない)。
本連載では、そうしてオレが得てきた知見の全てを、次の世代へと渡すつもりで書いた。

そのため熱が入りすぎ、当初の予定回数を大きく超えてしまうばかりか、各回の分量が予定の2倍〜3倍、ひどいときは前後編にまで分かれる始末。
編集部にはとても迷惑をおかけした。

連載開始時に阿部編集長は「日本のダンサーが世界に出て行く上で、あまりにも基礎知識が足らないのではないか」という危惧からこの連載を依頼してくださったという。その期待に少しでも応えられていることを願うばかりだ。
阿部編集長と編集部の手厚く適切な助言とサポートには本当に助けられ、学ぶことも多かった。

連載を終えてみて、あらためて思うのは、「ダンスという、ただ人が動く様を見ることに、人類はなぜこれほどの情熱と労力を傾けてきたのだろう」ということだ。
なぜこんなにも熱狂し、感動し、しみじみと涙を流したりするのだろう。

オレは優れたダンスに触れると、自分の生命の周りにへばりついた澱が取れ、つるんとした状態に戻る気がする。
生きることの意味など誰にもわかりはしないが、オレはダンスが、生きることに直結していると確信している。
だが答えは、それぞれの胸にあるだろう。

ダンスという大いなる謎について、読者とともに考え、冒険してこられたことに感謝している。

ありがとうございました。

(この連載は整理・加筆して、電子出版される予定です)

投稿 バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第17回〉ダンスにおけるセクシュアリティとLGBTQ+ 〜「本当の愛」は、「本当の自分」の中にあるよ〜バレエチャンネル に最初に表示されました。



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