バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第15回・前編〉多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~

“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~〈前編〉

もくじ

〈前編〉
日本文化を扱ったコンテンポラリー作品
● ベジャールの文化理解の深さ
● チョンマゲ・ボーイズとゲイシャ・ガールズ
●「今」の日本文化を採り入れる
●エンタテインメントとの融合
●日本から世界につながる作品
●日本発祥!?の謎ダンス ミズコとボッコ

ダンスと伝統、それはすでに始まっていた
●戦前の伝統舞踊・民族舞踊ブーム

□ ■ □

〈後編〉
コンテンポラリー・ダンスと伝統舞踊
●1986年を「日本のコンテンポラリー・ダンス元年」とする
●軽く見たあと、その重みを知る

その1:コンテンポラリー・ダンスが伝統を取り込んでいく
●ヨーロッパから他国の伝統舞踊へ
●人生に迷ったらアジアに来る人たち
●問い直すことで縛られる?
●わかり合えない部分を直視し、見続けること

その2:伝統がコンテンポラリー・ダンスを利用していく
●「はみ出した天才」の受け皿
●古典の革新にコンテンポラリー・ダンスを使う

その3:伝統もコンテンポラリー・ダンスもフラットに利用していく
●「欧米対アジア」がすでに陳腐である
●問われてくる先住民族への眼差し
●「伝統の作品化」に意味はあるのか?
●伝統は普通に生きてますけど?

その手で「未来」を選び取るために
●「身体を」「身体ごと」動かすプロジェクト
●その「交流」には意図がある!?

先月はバレエにおける伝統表現と差別的表現について書いたところ、大きな反響を得た。
正直「名作をけなすな!」といった感情的な反発も覚悟していたのだが、日本のバレエファンは実に深く柔軟にバレエを愛し理解していることがわかった。
苦労して書いた甲斐があった。

この回のテーマは「多文化時代のダンス」
バレエであれば歴史的な系譜のなかで伝統的な表現が重要になるが、コンテンポラリー・ダンスにおいては、同時代的に多くの文化と横断的につながることがメインになってくる。

日本文化を扱ったコンテンポラリー作品

●ベジャールの文化理解の深さ

まずは前回にならって「日本文化を扱ったコンテンポラリー作品」を見ていくと、これがけっこうあるのだ。

その筆頭は(当時は「モダンバレエ」と呼ばれていた)モーリス・ベジャールだろう。
もともと世界中の伝統舞踊・文化を取り込んだ作品を作っているが、東京バレエ団に振付けた諸作品、とくに『仮名手本忠臣蔵』をバレエにした『ザ・カブキ』や三島由紀夫等をテーマにした『M』などは、世界ツアーを含め、今でも繰り返し上演されている。

前回課題となった「イエローフェイス問題」とも無縁であり、なにより日本が海外に対して手にした最強のバレエ・コンテンツのひとつといえる。
では前回、もうひとつの課題だった「異文化への無理解」はどうか。

バレエなので『ザ・カブキ』では足を出すシーンも多く、和服とタイツが混在する場面もあるが、衣裳デザインはよく考えられている。なにより物語は現代と江戸時代が時空を越えてつながる構造で展開するため違和感なく見慣れてしまう。
さらに歌舞伎の知識があれば、随所に細かい工夫があるのがわかる。歌舞伎の所作が細かく自然に採り入れられ、「お軽勘平」などのサイドストーリーもちゃんと入っているのだ。

ベジャールはほぼ毎年のように来日公演をしていた時期もあり、日本文化の研究に余念がなかった。
大作バレエ以外にも、中村歌右衛門に捧げた『東京ジェスチャー』や、坂東玉三郎とベジャール自身が共演した『リア王〜コーデリアの死』を作るほどの情熱を持ち、先月述べた「知識のなさを想像で補う」ようなことはなかった。
2004年には東京バレエ団に『今日の枕草子』を振付ける予定だったのだが体調を崩して延期。作品は未完のまま、ベジャールは2007年に帰らぬ人となった。

●チョンマゲ・ボーイズとゲイシャ・ガールズ

日本文化をモチーフにした例としては、ジョージ・バランシンが日本で雅楽の公演を聞いて振付け、音楽には黛敏郎を起用した『BUGAKU(舞楽)』がある。
黛はオーケストラで雅楽風の曲を作った。バイオリンをゆっくりと笙のように響かせ、後半には大太鼓を使ったスペクタクルをもたらす。衣裳も派手すぎず桜の花をモチーフにしたセンスのあるものである。ちなみにベジャールも黛の曲を使って『舞楽』を創っている。
「舞楽」とは雅楽の中でも大陸渡来のものを指す。異文化との交流には向いているのかもしれない。

かぐや姫伝説に基づいたイリ・キリアン『輝夜姫』第6回「ダンスと衣裳」で述べた。

変わり種としては巨匠マッツ・エックが若い頃、まだ母親の名を冠したクルベリ・バレエ在籍中に創った『春の祭典』がある。これは白人全員がチョンマゲ・ボーイズとゲイシャ・ガールズの格好で踊る、なんともいえない作品だが、すでに天才の芳香がただよっており、個人的にはけっこう好きな作品だ。

なんでこんなことになったかといえば、エックは黒澤明映画『蜘蛛巣城』をモチーフに「家の犠牲になる男女」と『春の祭典』の生け贄の乙女を重ねたのだそう。
しかしそもそも『蜘蛛巣城』はシェイクスピアの『マクベス』をベースにしたもの。「パリ土産のラベルを見たら日本製」みたいなことになっとる。

さてドイツ表現主義舞踊の巨人ピナ・バウシュは、1980年代後半から世界各地にレジデンスしながらその地の歴史や文化をモチーフにした作品を創るようになった。『炎のマズルカ』(リスボン)、『アグア』(サンパウロ)、『ネフェス』(イスタンブール)など。

日本をモチーフにした作品もある。
彩の国さいたま芸術劇場が委嘱した『天地(TEN CHI)』がそれだ。同劇場は一時期、海外の一流振付家にバンバン委嘱していたが、なかでもこれは功績といっていいだろう。
舞台美術には巨大な鯨の尻尾が突き出しており、舞台全体が海面のようだ。べつに捕鯨問題ではなくて、「海なし県」である埼玉県の同劇場周辺が大昔は海の底だったことにインスパイアされたものだ。

同劇場は、イスラエルを代表するインバル・ピントにも宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をモチーフにした作品を依頼し、『Hydraヒュドラ』ができた。宇宙船を思わせる小さな窓が開いた白い舞台で、森山開次と大植真太郎が存在感を示していた。

●「今」の日本文化を採り入れる

こうした日本の歴史や伝統ではなく、「いまのリアルな日本」を採り入れるアーティストもいる。
まずはユーモアと驚きに満ちたアイデアで、日本のコンテンポラリー・ダンス黎明期から屈指の来日回数を誇るフィリップ・ドゥクフレが日仏中共同制作で『イリス IRIS』(2003年)を創った。横浜と山口にレジデンスして制作、出演者をオーディションで選出し、神奈川県民ホールと山口情報芸術センターYCAMで上演。特にYCAMは開館記念公演のひとつだったので、筆者は山口まで見に行った。

もっとも日本版は特別で、舞台上には真ん中から真っ二つに切り取られた日本家屋が再現されており、ウルトラマンの大きな人形などが設置されていた。フランスで作り直されたものは、日本家屋のセットはなく、エッセンスを生かしたスタイリッシュなものになっている。

本作で驚異的な身体能力と存在感を示した伊藤郁女はこの作品と共に渡仏するや大人気となり、アンジェラン・プレルジョカージュなどの作品で活躍、ヨーロッパで大ブレイクした。いまは自身の振付作品も高く評価され、彫刻家である実の父親とのデュエット『私は言葉を信じないので踊る』は世界中で公演を重ねている。

鬼才・変態の誉れも高いジョセフ・ナジも日仏国際共同制作『遊*ASOBU』で日本をモチーフにしている。世田谷パブリックシアターが中心となり、オーディションで選んだ日本側ダンサーのメンツがすごい。BATIK主宰の黒田育世、イデビアン・クルーの斉藤美音子、舞踏の大駱駝艦から田村一行・捩子ぴじん・塩谷智司・奥山裕典(いずれも当時の所属)。

これはパリで見たが、ナジのフィルターを通した日本という感じで、適度な距離感に好感が持てた。あまり距離がありすぎても「日本人を使う意味は?」となるが、「遊」という言葉に「遊戯・楽しむ」以外にも「ゆとり」など様々な意味が込められていることにフォーカスが当てられており、満場のパリの観客の反応もよかった。

●エンタテインメントとの融合

エンタテインメント分野でも、海外の一流振付家の起用も進んできている。

ドゥクフレは、佐野洋子の名作絵本を1996年にホリプロがミュージカル化した『DORA 100万回生きたねこ』の振付演出をしている。主演は沢田研二と山瀬まみ。
2016年には楳図かずおのSF漫画『わたしは真悟』(出演:高畑充希・門脇麦・成河 他)のミュージカル化の演出を手がけ、映像や意表を突く演出で観客を魅了した。

ちなみにミュージカル『100万回生きたねこ』は、その後インバル・ピントが二度舞台化している(2013年:森山未來・満島ひかり、2015年:成河・深田恭子)。
インバルは独特な動きに加え、衣裳や舞台美術も自らデザインし隅々まで自分の世界を創り上げる。かつて絵本の「スーホの白い馬」などを原案に共同振付で『草原の風~白い馬の伝説』などもやっているが、芥川龍之介の複数の作品をアレンジした百鬼オペラ『羅生門』、さらには村上春樹の代表作『ねじまき鳥クロニクル』など、舞台美術から独自の世界を創り上げている。

シディ・ラルビ・シェルカウイは、日本のBunkamuraからの委託で、漫画の神様・手塚治虫を描いた『テヅカTeZukA』、手塚の作品に基づく『プルートゥ PLUTO』(手塚治虫作『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」をリメイクした、浦沢直樹・長崎尚志による漫画『PLUTO』)の舞台化なども手がけている(詳細は5回)。

●日本から世界につながる作品

もちろん日本のアーティストも国内外の伝統に深く関わったコンテンポラリー・ダンス作品を発表している。

北村明子が東南アジア等にがっつり深くリサーチしてコンテンポラリー作品を作る『Cross Transit』シリーズや、山田うんが奥三河地方に700年受け継がれている伝統神事「花祭」に材を取った『いきのね』、コンテンポラリーとの協働も多い能楽師の津村禮次郎、津村との共演も多く『弱法師』など能に題材を取った作品もある森山開次等々は、いずれも高いクオリティを誇っている。

北村の振付は元々の切れ味にも増してリサーチした国の日常動作や武術などの身体言語が生きている。山田は円や渦といった生命の循環のうちに群舞を展開し、地面を踏む力強さをコンテンポラリー作品として立ち上げてみせる。
津村は大胆に新しい表現へ踏み出しても揺るがぬ能のポテンシャルを見せつける。森山開次は刃の如き鋭さと、闇や無音に溶け込む幽玄の身体性で深く能の作品世界に分け入っていく。

スタジオアーキタンツの企画でセルリアンタワー能楽堂で行われる「伝統と創造シリーズ」は、伝統とバレエやコンテンポラリー・ダンスなど、様々な異種混合プロジェクトが行われてきた。

また見逃しがちだが、いまの若者は、ゲームやアニメを通して日本文化に触れる機会が圧倒的に多い。なかには戦国武将が全員女性キャラになっているものもあるが、ピンポイントで深い知識を持っていたりする。「2.5次元」で舞台化する際の演出や振付は多くの一流のアーティストが関わっており、世界的にも配信・共有されている。
やがて見過ごせない存在になっていくだろう。

●日本発祥!?の謎ダンス ミズコとボッコ

番外編もちょっと書いておこう。

20年ほど前にイスラエルのフェスティバルで、ミズコ・ダンス・カンパニーというグループがカンパニー名と同じ作品『MIZUKO』を上演した。
日本人ダンサーは世界中にいる。ミズコさんが主宰者なのだろう。
案の定、全体に舞踏風の動きで、ちょっとおどろおどろしい雰囲気だった。

しかし作品解説を見て驚いた。
「日本では死産した赤ん坊の土人形を創って7年間育てる」
と書かれていたのだ。
怖いこわい。じゃ『MIZUKO』って水子だったのか!?

たしかに人形供養や土仏はあるし、どこかの集落にはそんな風習もあるかもしれないけど、日本のスタンダードみたいに紹介されてもなあ。
レセプションではその主宰者から話しかけられ、「ぜひこの作品を日本で上演したいの!」と熱く語られた。いちおう「オレはこの風習を聞いたことがないけどね……」と伝えておいた。

もうひとつ驚かされたのが、オランダのKarel van Laere & Vanja Rukavinaによる「ボッコダンス BOKKO DANCE」である。
海外のフェスティバルで会ったカレルから「僕らは日本が発祥のボッコダンスをやってるんだよ!」と話しかけられ、「……ん?」と二の句が継げなくなった。

「日本発祥」の「ボッコダンス」とは。

彼らのビデオを見せてもらうと、基本正面を向いてその場を動かず、ビートに合わせて手や足を動かす。「パラパラの激しいやつ」といった感じだ。

だがなぜこれが「日本発祥」であり「ボッコ」と名付けられたのか、カレル達もよくわかっていない。
そこで筆者が海外の知人に聞きまくって調査をしたところ、どうやら以下のような経緯らしい。

まず、日本のゲームメーカーであるコナミ(当時)が1998年、ゲームセンター用に開発したDDR(ダンス・ダンス・レボリューション)というゲームを出した。正面の画面から流れてくる指示に合わせて床に書かれた前後左右のパネルを踏むことで、自然と踊っているように見えるゲームだ。
ボッコダンスが基本「その場で踊る」のはDDRのプレイを模しているからだろう。

しかし「ボッコ」がわからない。
日本語でもオランダ語でもない。
なんとこれは、韓国語だった。

順を追って説明すると、まず80年代に韓国で「ポンプ・ダンス」と呼ばれるディスコ・ダンスが流行っていた。
そして2000年以降にDDRが韓国で大ヒットし、ボッコダンスの原型となるスタイルで踊る連中が出てきた。それが昔の「ポンプ・ダンス」に似ていたので、20年前の「復古 복고 BOKKO」ダンスと言われ、定着していったのだそうだ。

DDRは次々に新作が出るので、古い筐体は大量に南米などに払い下げられた。そのさいにボッコ・ダンスも一緒に輸出され、けっこう海外でも流行ったそう。
それが巡り廻ってオランダのダンサーの心を捉え、日本の舞踊評論家に話したところキョトンとされたわけだ。

この二つのダンスは、その後西ヨーロッパを中心に大ヒット……することもなくどこかへ消えたが、元々が「復古」なので、将来どうなるかは、誰にもわからない。

ダンスと伝統、それはすでに始まっていた

●戦前の伝統舞踊・民族舞踊ブーム

前回見てきたとおり、植民地が増えれば人の往来も増える
「異国文化」への興味の高まりと共に、各国の伝統文化・伝統舞踊への関心も高まっていた。
コンテンポラリー・ダンス以前、モダンダンスが誕生した20世紀初頭、「異国の伝統舞踊・民族舞踊」は欧米など「先進国」で流行し、多くの民族舞踊がツアーを組んで世界中を駆け巡った。欧米のダンサー達もアジアをはじめとする「異国」のダンスをリサーチに訪れたのだった。

第13回で紹介したマリー・ヴィグマン『魔女の踊り』も、ヴィグマンが繰り返し訪れていたインドネシアの床に座って一列になって踊る「サマン・ダンス」の影響が考えられるなど、プラスの影響を見ることもできる。

学問でも文化人類学者のレヴィ・ストロースがブラジル少数民族のリサーチをしていたのがこの頃(1930年代)。後に『悲しき熱帯』としてまとめられ、白人中心主義を鋭く批判した同書は、文化人類学・構造主義の金字塔とよばれることになる。

エンタテインメントの世界でも、第一次大戦後は禁酒法が施行されたアメリカから、職を求めて多くのバンドマンやダンサーやアーティストがヨーロッパに渡った。夜な夜な行われるパーティーでは、大陸風(コンチネンタル)にアレンジされたジャズやタンゴで若い男女が踊りまくった。

アメリカではひどい差別を受ける黒人女性ジョセフィン・ベイカーが、ヨーロッパ公演後もパリにとどまり、腰にバナナを巻いた「アフリカの女性」を演じてスーパースターになったり。
ルース=セント・デニスはインドや日本など様々な彫刻や絵のポーズをつなげる「オリエンタル・ダンス」で有名になった。

独自に「オリエンタル・ダンス」を研究しダンサーとしても有名だったラ・メリは、ニューヨークに「エキゾティック・ダンス・センター」を作っている。
ラ・メリとツアーで回っていたのが「インドのニジンスキー」と言われたラム・ゴパール
インド舞踊では欧米との架け橋となったウダイ・シャンカールは、なんと『瀕死の白鳥』で世界を魅了していたアンナ・パブロワと、『ラーダ・クリシュナ』(1923年)で共演している。
これらの多くは来日公演もしている。日本でも「異国」の文化の魅力には強く惹かれていたのだ。
第13回で書いた、大野一雄が一目惚れしたスペイン舞踊家ラ・アルヘンチーナ(アントニア・メルセ)の来日公演も戦前のことである。

もちろんアジアにも中国の京劇のスター女形だった梅蘭芳がいる。日本人では、ロダンが彫刻のモデルを依頼しパリ社交界の花となったマダム貞奴、欧米で活躍した伊藤道郎や、日本のモダンダンスの開拓者石井漠など、海外で活躍した人は多い。朝鮮半島出身で石井の弟子になり「半島の舞姫」と謳われた崔承喜も、朝鮮舞踊を採り入れたダンスで海外でツアーを成功させ、敗戦直前の日本で帝国劇場を単独公演で20日間にわたって満席にしてみせた。

★第15回・後編「多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~」は2021年7月12日(月)更新予定です

投稿 バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第15回・前編〉多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~バレエチャンネル に最初に表示されました。



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