バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第8回〉ダンスと照明〜光の向こうに、深淵がある〜

“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスと照明 〜光の向こうに、深淵がある〜

はじめにお詫びを言わなければならない。
前回、今回のテーマは『照明と映像』とお伝えしていたが、やはりというか、「照明」について書いているだけで規定枚数を大幅に超えてしまった……

ので、今回は照明について、そして次回映像について述べていきたい。
申し訳ない!

照明で、ダンスはこんなに変わる

……さて舞台芸術は「見る芸術」である。対象を照らした光が観客の目に入って像を結ぶ。
同じ物を見ても、照明によって全く印象が違ってしまう。
だが日本のダンス作品は、照明をただ「照らす」以上の重要性を理解していない作品が多いのである。

ちょっと想像してみよう。

光に満ちた舞台で溌剌とした振付で踊るダンスがあるとする。見ていると楽しげで心が弾む。
しかし同じダンスでも、真っ暗な中で照らされた小さな円の中で踊っているとなると、必死に明るく見せようとしている感が増してこないだろうか。
あるいは右側だけ照明を当て、顔や身体の陰影が深く刻まれたまま踊っていると、何かの闇を抱えているように見えるかもしれない。
炎のように真っ赤な照明の中で踊っていたら、あるいは氷のように青い照明の中で楽しげに踊っていたら。
収容所のような蛍光灯の下だったらどうだろう?
あるいは床に置かれた小さなランプの前で楽しげに踊っていたら……

受ける印象は全く違ってくるだろう。
このように照明はダンスそのものの意味合いまでも変えてしまう恐るべき力を持っているのである。

どれだけ素晴らしい動きを作っていても、照明がいい加減では台無しになってしまうかもしれない。
繊細な和食にジャムを塗って出すようなことをしてはいかん。

正しい照明の力を知っていると、ダンスを作るのも見るのも俄然違ってくる。
今回はそこを見ていこう。

●月の光で踊る

バレエの照明、とくに『白鳥の湖』『ジゼル』といったロマンティック・バレエでは、森の中、月光を思わせる青い光の印象が強くないだろうか。

日本のバレエ照明に多大な功績を残した梶孝三が作る月光の青は有名だった。
青といっても冷凍庫のような冷たいだけの光では駄目で、冴え冴えとしていながら森の奥の湿度をも感じさせる青でなくてはならないのだ。「青い光は、昔の限られた照明設備で白いバレエを美しく見せるためだった」という説もあるが、いずれにしても作品世界と深く結びついた舞台照明だといえる。

もっとも現在は海外のバレエ団や、日本でもバレエやダンスを数多く手がける足立恒などの照明は、従来の青だけでなく、より自由な照明デザインも出てくるようになった。
100点と思われていた舞台照明も、常に進化し続けているのである。

●モーリス・ベジャール『ボレロ』の三位一体

ベジャールの不朽の名作『ボレロ』は、ダンスと音、そして照明までもが三位一体となった作品である。

ラヴェルが作曲した『ボレロ』は、同じ旋律を繰り返しながら、次第に演奏する楽器の数が増えていく。
冒頭はスネアドラムが音を刻む中、フルートから始まった旋律が次第に成長していき、最後には大オーケストラとなって鳴り響く。

振付も同じ構造で、最初は大きな赤い盆の上で踊る「メロディ」のソロから、廻りを取り囲む「リズム」達の群舞へと展開していって、最後で一体となるのだ。

照明もまた(バージョンはいくつかあるが)同じように展開する。最初は「メロディ」がゆっくりと上げていく右手だけを射貫くように小さな光が当たる。頂点まであがると、次に光は左手を捉えて同様に追いかけていく。

大劇場であれば照明から舞台上までは何十メートルも離れている。シーリングスポットライト(客席の上部や後方から狙うライト)で、小さな人間の手のひらにドンピシャで照明を当てなければならない。今はほとんどがコンピュータ制御だが、昔は手動で移動する手の軌跡を追っていったのだろう……だが昔は小さな劇場であっても、パッと振り上げた右手に一発で光を当てる技を持った職人はゴロゴロいたという(逆に態度が悪いダンサーはずっと顔を映さない等のイジワルをされたとか)。

やがて光は手のひらから顔、全身へと続き、メロディが乗っている中央の赤いテーブル全体を映し出す。
さらに曲が進むと、少し離れた場所にぐるりと取り囲むよう男たちが座っている全体像が、順を追って照らし出されていく。
照明の範囲は徐々に広がっていき、そのたびに多くのダンサー達が踊りに加わり、最後にクライマックスを迎える。

『ボレロ』は、曲と振付の構造を、照明でも展開しているわけである。

●全ては電気の時代から

とはいえ、考えてみれば現在のような綿密に設計した照明デザインは、電気が普通に使えるようになった、ここ百年ちょっとのことにすぎない。

人類の歴史のなかでは、長い間、日光こそが最大の照明器具であった。ヨーロッパの教会でステンドグラスが発達し、白い壁が多いのも効率よく光を乱反射させて光を建物内に行き渡らせる工夫である。日本の障子や坪庭なども同様だ。

ヨーロッパでも特に裕福な人々はシャンデリアに大量の蝋燭を使ったが、洋の東西を問わず照明用の燃料は高価だった。

歌舞伎は河原乞食といわれた時代を経て劇場を組むようになっても屋根を葺くことは禁じられていた。屋根の許可が下りたのは享保三年(1718)からと言われている。朝から公演していたのも、天窓の開け閉めによって照明を調節していたからだ。

能などは登場人物のほとんどがこの世ならざる者なので、薪能のようにゆらめく光の方が幽玄度が増したりもする。

今でも舞台上で本火を使うのは消防法によって厳しく規制されているが、火しか照明器具がなかった時代には、しばしば不幸な事故も起きた。
有名なのは1863年、バレリーナのエンマ・リヴリーが、ドレスリハーサル中に照明のガス灯の火が衣裳に燃えうつって焼死した事件だろう。
リヴリーはロマンティック・バレエの代名詞だったマリー・タリオーニの愛弟子で将来を嘱望されており、21歳という若さだったのだ。

ちなみにガス灯の発明は1792年。1872年には日本(横浜)に上陸している。1891年に発明された白熱ガス灯は人間が初めて手にした太陽光に近い「白い光」だったが、まもなく電気照明に取って代わられた。

19世紀から20世紀にかけて、電気が広く大量に安定的に使えるようになったことで、舞台照明は大きな変革期を迎えることになるのである。

●電気照明のダンス

イザドラ・ダンカンと並び「現代的な芸術的なダンス」の先駆けとなったひとり、ロイ・フラー(1862年〜1928年)は、電気照明を使ったダンスで新しい表現の地平を拓いた改革者の一人である。
ひらひらの衣裳を大きく波打たせながら(裾が蛇行することから「サーペンタイン(蛇の)・ダンス」と呼ばれた)色つきの照明を前や後ろから当てて、様々に変化させる。
電気照明という当時の最先端テクノロジーと直結していたことが、大いに視覚的なショックを与えたのだ。いまの我々がCGを見るようなものだろうか。

20世紀とは照明・写真・映画といった「光の世紀」である。
舞台照明は、電気の登場によってパワフルに、そしてコントロールしやすいものとなった。当然に様々なアーティストが創意工夫を重ねていくことになる。

バレエ・リュス団長のディアギレフは映像嫌いだったため、当時の映像は一切残っていない。それでも電気照明はお気に入りだった。ダンサーが出ない照明だけの作品『花火』(1917)を上演しているほどだ。
これはイタリア未来派のアーティスト、ジャコモ・バッラの美術によるもので、なんと照明のオペレーションをバッラとディアギレフが協力して行ったという。

日本の舞台照明については『現代照明の足跡~歴史を創った7人の巨匠たち~』(日本照明家協会様刊行)という本にある、遠山静雄、小川昇、松崎國雄、篠木佐夫、穴澤喜美男、大庭三郎、相馬清恒といった人々のエピソードが楽しいのでオススメだ。

照明の4つの役割

さてダンスとは基本「見る芸術」である。照明が重要であることはいうまでもない。
海外では「ライティング・アーティスト」として認識されていて、作品評でも「作品はともかく照明が素晴らしい」という評価も普通に出るくらい、アーティストとして評価される。日本でもだいぶ浸透してきてはいるが、もっと高く評価されるべきだろう。

さてここでは、照明の役割を以下の4つに分け、順次見ていくことにしよう。

〈照明の役割〉
  • その1:照明は舞台を照らす/照らさない
  • その2:照明は場面を変える
  • その3:照明は景色を創る
  • その4:照明は影を創る

その1:照明は舞台を照らす/照らさない

●舞台を照らす

もちろん最も一般的な役割はこれだ。しかしただ見えるように照らすだけなら子供でもできる。
照明は、もっと意味のある使い方をするべきだが、若手の作品にありがちなのが、「地明かり(舞台全体を照らす)と暗転(カット・イン、カット・アウト)」「サス(サスペンションライト)やピンスポ(ピンスポットライト)で部分を照らす」の二種類の組み合わせしかないもの。
要は「全体と自分を照らすことしか考えていない」のがミエミエの作品が、実に多いのだ。

だがなんでも突き抜ければ芸になる物で、このサスを意図的に作品化した例もある。
強烈な個性と身体性のダンスで一躍脚光を浴びた川村美紀子だ。横浜ダンコレでの受賞作『へびの心臓』は、舞台上をマス目のように区切ってひとつずつ照明が当たるようにしているのだが、「踊っているところに光が当たる」「当たっている光の中に飛び込んで踊る」「光が当たると、人ではなくキューピー人形が置いてある」「次に当たると人形が増えている」……という具合に、観客の予想を次々と逆手に取って展開していくのだ。

これも「強烈なダンスの川村かと思うとキューピー人形が現れる」という緩急、テンポや間があってのことなので、安易に真似をしてもうまくいかんぞ。

●あえて見せないための照明

「見せるための照明」があるなら、「見せないための照明」もある。

舞踏の創始者のひとり土方巽の代表作『禁色』では、ほとんど見えるか見えないかの暗い照明の中で、男(土方巽)と少年(大野慶人)と生きたニワトリが舞台上を走り回る伝説的な作品だ。
今からするとさすが挑戦的な作品だと思われるが、初演は1959年、しかも自主公演ではなく舞踊協会の新人公演の中のひとつだったため、観客の多くは照明の事故だと思い「見えないぞ! しっかり照らせ!」と怒号が飛んだという。

この状況は、日本にコンテンポラリー・ダンスが入ってきた1980年代でもあまり変わらなかった。
振付家が「身体の線を見せたいから逆光で、顔は影のままでいい」と指示しているのに、本番で照明家が辛抱できなくて「…………うりゃ!」とダンサーの顔を照らしてしまう現場を見たことがある。

彼らが普段仕事をしているのはメジャーな芝居やバレエあとは音楽コンサートなどの公演だから、「主役の顔に光が当たっていない」などありえないし許せない。なにより同業者から、よほど腕の悪い明かり屋だと思われてしまう。
「いかに美しく照らすか」を何十年もかけて身体に叩き込んできた性を見る思いだった。

その2:照明は場面を変える・景色を創る

●赤を多用するのは駄作(が多い)

照明の役割がただ舞台上を照らすだけならライティング・アーティストは必要ない。
何本もビームが飛び交ったり床をカラフルに染め上げたり、光がクルクル回ったりするのも、基本的には「舞台を照らす」以上のものとはいえない。

優れた照明とは、舞台全体の空気の質感や温度、湿度といった質を変えてしまう力がある。次に起こることの予兆となり、観客を速やかに次のシーンへと誘う。

この「予兆」であることが重要で、「説明」になってはダサいのである。
なので「赤い照明を多用する作品」には駄作が多い
こんなエモーショナルな色を、殺意とかショックとか強い情動のシーンでそのまま使うようでは、「えーとダンスに自信がないんで説明しときますけど、ショック受けてます」と蛇足の説明をしているに等しい。

赤を使って許されるのは、「説明」を凌駕するほどの強さがダンスにある時だけだ。

デビュー作の『SideB』に続いて黒田育世の名を世に知らしめた『SHOKU』は、まさにそういう作品だった。
強烈な打撃音が響くなか、髪を振り乱した女性達が足を踏みならし下着に手を突っ込んで激しく動かす。
安直なエロティシズムなどは吹き飛んで、ダンサー達のエネルギーが野獣の咆哮のように身体全体から放出されるのだ。
照明ではなく、苛烈なダンスによって舞台空間が赤く塗りつぶされたように見えてくるほどの力が、舞台を全く異質な空間に変えてしまっていた。

その3:照明は景色を創る

勅使川原三郎は1980年代から照明の大切さを深く理解し、こだわり、様々な実験をしてきたアーティストである。前回述べた、「本物のガラスを割り、敷き詰めた破片の上で踊る」とき、舞台上の破片に当たった光が乱反射して舞台から客席にまで広がっていった。

勅使川原の『月は水銀』は衣裳にも特徴があった。「身体の内部で結晶化したガラスの破片が突き出している」デザインなのだ。胸や背中から突き出した鋭利なガラスの板(に見える)へ光を当てると、反射した光の線が四方に飛び、まるで最終形態の『シン・ゴジラ』が大量に放つビームのように美しかった。

反射を利用するといっても、ミラーボールや水の波紋といったありきたりのものではない。
舞台美術や衣裳に、照明としての効果を持たせるように計算してデザインしている点、じつに非凡である。

勅使川原が新国立劇場小ホールで上演したソロ作品『ミロク』では、勅使川原の照明デザインに加え照明技術に山本隆志を招き、周囲の壁に貼られた何枚もの青い光のパネルを高速に多段階に変化させた。
パネルの青のグラデーションや、周囲を高速に光の波が移動していくなど、「光と踊るデュオ」のダンス作品を作り上げていた。

若手の作品で照明の使い方に感心したのは、小暮香帆『ミモザ』である。
バッハの『ゴールドベルグ変奏曲』を全曲流しっぱなしにして、ほぼ素の舞台で踊る長尺のソロ作品だ。
小暮は繊細さと爆発力を兼ね備えているダンサーだが、冒頭は指先ほどしか動かない。グレン・グールドの弾くピアノは淡々としたたる雫のように染み入ってくる。
やがて遠くから差す光、四角く壁に当たって窓や額縁のように見える光、あるいは真横から一直線に自分の顔を射貫く光に向かって踊る……というように、久津美太地の照明は様々なレイヤーでダンサーと関わり、景色を創り出し、作品をじつに豊かな物にしていたのである。

その4:照明は影を創る

●影で踊るダンス

谷崎潤一郎が名著『陰翳礼讃』で指摘したとおり、近代的な西洋文明は全てを明るく照らし生活から影を駆逐したが、日本など東洋ではむしろ陰影を尊びその美しさを愛でてきた文化がある。

舞台照明にもその精神は生きている。

光あるところ、必ず影がある。
ときには光以上に魅力的な影を創ることもあるのだ。

影絵はアジアでも重要な伝統文化であり、現在も盛んに上演される。中国やインド、トルコなど広範に及び、とくにインドネシアの影絵人形芝居『ワヤン・クリ』などは有名である。

ヨーロッパでも影絵を大きく投影する幻灯機(ファンタスマゴリア)は、電気照明の登場と共に一気にパワーアップし、大人気アトラクションとしてもてはやされ、舞台芸術にも応用されていった。

壁に絵を描いたり舞台セットを組んだりするのは大変だが、影ならば、一瞬で巨大な空間を埋めることができる。
これは舞台美術として、大きなメリットである。
電気照明が実用化されて、より強い光を安定的に得られるようになった20世紀初頭、盛んに「大きな影と踊る」スタイルは舞台や映画など、様々なモダニズムのアートに登場するようになってくる。

欧米で広く活躍した日本のモダンダンスの開拓者の一人、伊藤道郎の代表作ソロダンス『ピチカート』もそうだ。仁王立ちになって手と上半身だけで踊り切る作品だが、背景に大きな影が映し出される。

フレッド・アステアのミュージカル映画『有頂天時代』(Swing Time 1936年)の有名なナンバー「ボージャングルズ・オブ・ハーレム」でも、ブラックフェイスのアステアが、大写しされた自分の影と踊る。ただしこちらは、途中からアステアと影の踊りがズレていき、やがて影が勝手に踊りだすオチがついている。

そこそこ人気のあったダンスカンパニーが、いつの間にか「超人的な影絵のパフォーマンス集団」として有名になったのが、アメリカのピロボラス・ダンス・シアターである。日本のテレビでも時々紹介されている。
もともとアルチンボルドの絵のように、何人もの身体を組み合わせて面白いフォルムを創る作風だったが、それを発展させて、いまはアフリカの草原や映画のシーンなど、スケール感のある作品を創っている。

●影と踊るダンス、もしくはまったくの闇

「影と踊るダンス」は、影絵だけではない。

影を使い、さらに新しい表現を創り出したのがローザス初期の代表作にして金字塔であるアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル振付『ファーズ FASE』である。

スティーヴ・ライヒのミニマルな曲の中、女性二人が少し間隔を開けてシンプルに踊る。
それぞれ外側の斜め前から射す照明のせいでダンサーの間にある壁に影ができ、中央で重なる。そして影が「3人目のダンサー」として踊っているように見えてくるのである。

もちろん二人の影がCGのようにピッタリ合うわけではない。それでもいささかもその効果が減じないのは、これもライヒの曲とダンスの「構造の一致」となっているからだ。
先ほどベジャールの『ボレロ』が、曲・ダンス・照明それぞれが同じ構造を共有していることを見てきたが、『ファーズ FASE』でもやはり曲と振付のリンクが起きているのである。

ここで使うミニマル音楽とは最小限(ミニマル)な同じフレーズが繰り返し演奏されるスタイル。しかし完璧な反復ならコンピュータを使えばいい。そうしないのは微妙に起こる揺らぎが曲に表情を与えるからだ。
さらには意図的に並行するフレーズをずらしていくことで、紋やモアレのように「ズレた重なりが新しい表情を生み出す効果」がミニマル音楽の肝である。「モアレ」については、画像が楽しいので各自ググって

『ファーズ FASE』は「二人のダンサーのそろった動き」「その真ん中に現れるちょっとズレた影」その全てがトータルで新しい表情を生み出す。ミニマル音楽の構造の視覚化であり、新しい光と影のダンスの提示なのである。

一方「完全な闇の中での公演」もある。
村本すみれが主宰していたMOKK LABO#『暗闇』は、大きな貨物用のコンテナの中での公演だった。
微かな光すらない真の闇は日常でなかなか体験できない。しかもそれを貨物用コンテナで体験するのは、この公演以外では密航者ぐらいのものだろうけれども。

この公演では観客を4〜5人ずつ小分けにして、観客同士で手を繋ぎながら請じ入れられる。人間は情報収集の大部分を視覚に頼っているので、暗闇では他の感覚が研ぎ澄まされていくことがわかる。自分の周りを移動しながら踊っているダンサーの吐息と気配が、いつになく生々しく迫ってきた。

「完全に見えなくてダンス公演なの?」と思うかもしれない。
ではたとえば、映像を多用して生身の身体がない公演はダンス公演だといえるだろうか。
もちろん「動きを見せているのだからダンス公演だ」といえるだろう。
だが昨今の動画配信にも通じる問題だが、我々は生の舞台で動きだけを見ているのではなく、動き以外の、ダンサーの存在全体を感じている。ならば、動きを見えなくしてダンサーの「存在」だけを抽出してみたら……という意味からも、この暗闇のダンスは面白い試みではあった。

変わり種の照明:方向と種類について

……と、4つの照明の効用を見てきたわけだが、ここからは少し変わった視点で照明について考えてみよう。

●自分で自分を照らす

舞台で使う照明は、遠くから照らすばかりではない。
たとえば照明を自分で手に持つ演出がある。
多いのはライターや懐中電灯、マッチなどだ。
顔や身体の周りで頻繁に位置を変えて点灯・消灯を繰り返すことで、様々な陰影を見せる。使用許可が難しいが揺れる蝋燭の火の前で踊ることもある。

また裸電球を天井から吊るして手元で操作したり、振り子のように振って光源を往復させ陰影を立体的に見せたりする。場合によっては壁に叩きつけて壊すことも可能だ。

●光の種類も様々

光そのものの感触にも、様々な種類がある。

従来は照明に赤や青など色のついたポリエステルフィルムを差し込んで色を作っていたのだが、最近ではLED照明の普及で照明デザインの自由度は増した。ただ機材によって照明のレスポンスには癖があり、苦労はあるようだ。

従来の舞台ではあまり使われなかった照明器具も続々持ち込まれている。
蛍光灯や水銀灯などは、白く無機質で寒々しい。とくに水銀灯は電源を入れてから光るまでに時間がかかり、高い位置から照らされると荒涼とした雰囲気が舞台に満ちる。

異色だったのは勅使川原三郎の初期作品だ。ソロで踊る勅使川原の足元に、細長い光が差し込まれてくる。蛍光灯かなと思ってみていると、光の線がどんどんどんどん際限なく伸びていくのである。
違和感を感じつつも、光の線が2メートルを超えたあたりで、ただならぬことに気づく。まさかこんな狭いスタジオでネオン管を使う奴がいたとは。もちろん光の線と共に光量も刻々と変化していき、視覚的な効果もしっかりとあるのだった。

減衰することなく直進するレーザー光は、安易に使うと一気にアイドルコンサートっぽくなってしまう。
しかりチェコで見たヴェーラ・オンドラシーコヴァ Věra Ondrašíková『GUIDE』は、優れたパフォーマンスだった。

レーザー光が水平に広がって水面のように見え、そこへ潜ったり「光の水面」ギリギリを歩いたりするのだ。
男の手に合わせて光が波打つように動くのがリアルタイムな反応なのかどうかわからないが、その繊細さは驚いた。光を舞台装置として使った成功例で、ワンアイデアながら見事に展開させていた。

●光の方向も様々

照明は上から照らすだけとは限らない。
先述のように自分で照らすものもあるし、様々な方向から照らすことができる。
他人がライトを持ってダンサーを追い立てるように照らしていく場合もある。

「横」からのサイドスポットライトもある。上からとは違い、舞台の内側に向かって光を当てるのだ。フォーサイスは舞台の左右の袖に沿って何灯ものサイドスポットライトをずらりと横一列に並べ、影の少ない、そして光の出所がわからない、面白い効果を出していた。

さらに「後ろ」。舞台から客席に向かって強烈な光を放つバックフットライト、俗に「目つぶし」と言われるものだ。
光を背負って仰々しく登場するだけでもダサいのに、その後も延々と目をつぶしの光のまま踊っている奴がいる。オレのように目の弱い観客は、その間じっと目を閉じてひたすら終わるのを待っているんで、そのつもりでな。
あとストロボでも閉じるぞ。

「下」からの照明もある。
リンゼイ・ケンプ『フラワーズ』には驚かされた。
乞食で泥棒で男娼だが紛れもなくフランスを代表する作家でもあったジャン・ジュネの自伝的小説『花のノートルダム』の舞台化だ。

冒頭は刑務所のシーンで、牢に見立てた3階建ての部屋が舞台の両脇に設えられ、イケメンでマッチョな男たちが自らのズボンの中をまさぐっている。音楽と共にそれは高まっていく。そして絶頂の瞬間、下から男たちの股間に向けて、まるでペンキかと思うほどに濃い黄緑色の照明がドーンと当てられるのである。
同性愛とエロティシズムはジュネ文学の柱の一つであり避けては通れない。
まさに幕開けのシーンで、ジュネのエッセンスを濃厚に詰め込んでいたが、優れた照明の演出によって下卑た物とはならず崇高で美しいシーンを作り上げていたのである。

それにしても、あんな色の光は見たことがなかった。後にケンプ本人に聞いたところ、日本は電圧が低いので光量が足りないため、変圧器を使ってあの強さの色を出したのだといっていた。

●日本の電圧

照明について考えるとき、ネックになるのが日本の電圧の低さである。
海外では200ボルト〜240ボルトが普通の中で、日本の100ボルトは飛び抜けて低く、日本と北朝鮮しか使っていないと言われるほど。

いまでは日本製品もほとんどコンセントのデカい部分で調整するので(100v-240v)海外でも使うことが出来るが、昔は海外旅行用の変圧器が売られていたほどだ。

現在の舞台照明には様々な対策が講じられているが、かつては海外で見た作品の来日公演を見ると、どうも印象が違うことが多かった。海外ではピシッと床まで届いていた光の線が、日本では光量が足りずぼやけてしまうことが多々あったのだ。

●終わらせ方も

そして照明は、照らすときと同じくらい「終わらせ方」も重要である。

パッと切断する暗転(カット・アウト)では、ダンサーの存在を断ち切るように、あるいは消灯後の闇の中に最後の姿を残像として印象づけることもできるだろう。

徐々にたっぷりと時間をかけて(フェード・アウト)、ときに照明が呼吸するように微かな明滅を繰り返しながら照明が落ちていくと、最期の姿がいつまでも続いていく余韻を残すことができる。

最後をどう締めくくるか、この最も重要な瞬間を握っているのは、照明に他ならないのである。

●「観客の身体」を利用する

照明を考えるのに、照明器具を研究するばかりが能じゃない。
ここでひとつ「裏技を使った照明テクニック」を紹介しよう。

まず、「物が見えるとはどういうことか」を考えてみる。

対象物が反射した光が眼球に入って網膜に投影され、その画像が電気情報に変換されて脳に届くと、人は「見えた」と認識する。
人間の目は高性能だが、最終的な処理は脳がしている。そこを利用するのだ。

たとえばアメリカのデヴィッド・パーソンズのソロ作品『CAUGHT』(82年)は、人間の脳の中で起こる残像現象を利用している。
まったくの闇の中。フラッシュライトが点滅する瞬間に合わせて、ダンサーは飛び上がる。再び闇の中、すぐ別の位置に移動して、次の点滅で跳躍……この連続を高速で行うと、観客の目に残像が焼き付き、パラパラ漫画の要領でダンサーはまるで空中を移動しているように見えるのである。

アイデア一発の宴会芸ではないか、と馬鹿にしてはいけない。
バレエの至宝ウラジーミル・マラーホフが、この作品をことのほかお気に入りだった。
マラーホフは完璧なグラン・ジュテを完璧なタイミングで完璧に高さまでそろえて繰り返す。すると「いつまでも落ちてこないグラン・ジュテのまま舞台を一周する」という、男性ダンサー憧れのマジカルな光景が実現できてしまうのである。

次に紹介するのはサッカード運動を利用した作品だ。
なにそれ? と思うのも無理はない。しかしいまこの瞬間もあなたの目はサッカード運動をしている。

人間の眼球は、絶えず細かく規則的に高速振動しているのである。これがサッカード運動で、片目でも物を立体的に把握し、急に視線を移動させても混乱しない等に役立っている。どんなに凝視していても止めることはできない。

ドイツで活躍するダンサー川口維が研究者の渡邊淳司等と共に創った作品『REM-the Black Cat』は、サッカード運動の振動に合わせて横一列に並べたLEDが明滅する「サッカード・ベイスド・ディスプレイ」を使った作品である。
このディスプレイで描いた物は「サッカード運動をしている人間の目には像を結ぶが、瞬間を捉えるだけの写真や映像には結ばない=映らない」のである。
「人間の脳に直接描き込む装置」といえるかもしれない。

ダンスとは身体を使った表現。しかし、使うのは「ダンサーの身体」だけとは限らない。「観客の身体」をもメディアとして利用してしまう。次回に述べるVR(バーチャル・リアリティ)なども、要は観客の脳がリアルだと感じるポイントをだまくらかしているわけで、いくらでも世に溢れているのだ。

こうした「客の身体をもメディアとしてしまう」といったアートとテクノロジーの融合は、これからどんどん進んでいくだろう。
舞台照明も、その概念自体を常にアップデートしていく必要があるぞ。

光そのものがテーマとなる

最後に、光そのものがテーマとなる作品について触れておこう。

今回、勅使川原三郎の登場頻度が高いが、やはりそれだけ彼の照明に対する意識の高さと新しい表現に挑戦していく姿が浮かびあがってくる。
なかでも『ルミナス』は、「見えるとは何か、光とは何か」をテーマにした傑作である。

はじめは普通に明るい舞台で踊っているのだが、やがて舞台は完全に闇の中になる。
そこへ夜光塗料を仕込んだ巨大な壁やダンサーが登場し、蓄光された黄緑色の光が、闇の中に茫と浮かび上がるのだ。得も言われぬほど美しい。

これだけでも十分に驚かされるのだが、本当に呻らされるのはここからだ。

実はこの作品には、はじめから盲目のダンサーが一緒に出演している。
再び照明が点いたあと、勅使川原は彼の手を取ってデュオを踊るのである。

客席は闇から解放され、眩しいくらい光に満ちた舞台を目にしているわけだが、まさにその瞬間も、舞台上にいる盲目の彼は、依然として暗闇の中で踊っていることに気づかされ、観客は慄然とすることになる。

あまりにも無防備に、当たり前のように眼球は光を受け入れるので、我々は光とはいつも目の前にあると思い込む。実際ほとんどの文化で光は「正しく美しいもの」として扱われる。

だが光に潜む暴力性……無条件に飛び込んでくる光と同様に、目を開ければ何かが見えるのが当たり前だと思っている「常識」の傲慢さ等々、今まで考えもしなかった様々な事に気づかされる作品だったのである。

「何を見せるか」から「何を見られるか」へ

今では筆谷亮也などフリーランスで国際的に活躍しダンス作品にも多く関わる照明家が出てきている。
だが日本の照明は、そのクオリティの高さに反して、長く「照明屋さん」という裏方的な扱われ方をしてきた。機材の管理の必要から照明スタッフは劇場付で雇用され、照明に慣れていない若いアーティストは「おまかせ」で明かりを作ってもらうことも多い。

若いダンサー達は、スタジオの蛍光灯の明るい照明の下でひたすら動きを創ることだけで手一杯で、照明を考えるのは最後になってはいないだろうか。
しかし最終的にどう観客の目に映るのかまで考えなければ、せっかく創ったダンスの魅力は十分に伝わらないだろう。

繰り返すが、振付とは身体の動きを考えるだけではなく、舞台空間全体を考えることだ
探究心のあるダンサーは、「踊るとは何か」「身体を動かすとは何か」「舞台上に存在するとは何か」にまで考えを巡らす。
そしてさらに進むと、「観客とは何か」「観客が舞台を見るとはどういうことなのか」まで含めて自分の作品を考えられるようになる。

もちろん劇場との段取りの関係で、最後に回さざるを得ないようなこともある。
しかしそこで踏ん張るかどうかが、作品の命運と、アーティストとしての成長の分かれ目になる。

若手の作品が独りよがりになりがちなのは、「どう見せるか」ばかりを考えて、「どう見られるか」を考えていないからだ。
自分の作品を客観的に見れているかどうか。
それは照明にちゃんと気を配っているかどうかに現れてくるのである。

そしてダンスやバレエは、舞台照明というアートが最も力を発揮できる相手だと思うのだ。
演劇やミュージカルなど台詞のあるものは、どうしても口元や顔の表情に意識が集中する。
しかしダンスの観客は常に舞台空間にある身体全体を見ているからだ。
ダンスと舞台照明は、より一層の深い関係構築をお願いしたいぞ。

□ ■ □

さて、次回は『ダンスと映像』について。
こちらも照明同様、電気のおかげ、最近はコンピュータのおかげだからこそ、テクノロジーに表現のクリエイティビティをどうやって載せて表現を生み出していくか、じっくり語っていきたい。

★第8回は2020年11月10日(火)更新予定です

投稿 バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第8回〉ダンスと照明〜光の向こうに、深淵がある〜バレエチャンネル に最初に表示されました。



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