バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第3回・後編〉ダンスと音楽ーー知性と身体性の果てしなきバトル

“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

音楽とダンスを引き裂いたダンス史上の大事件

●ダンスと音楽を切り離す試み

さていよいよ、「音楽とダンスを引き裂いたダンス史上の大事件」について書いていこう。
それは数千年にわたる「音とダンスは一緒にいて当たり前」という常識を根本から揺さぶった
巨匠マース・カニングハム(1919-2009年)が抱いた、ある疑問に端を発している。

きっかけは、第2回の「ダンスと言葉」の内容と似ている。
「ダンスは総合芸術というが、音楽も美術も、それぞれ単体で楽しめる。しかしなぜダンスだけは『何かと一緒』じゃないとダメなのか?

ではどうするか? ここはちょっとみなさんも考えて欲しい。

「ダンスと音楽が同じくらい力があること」を示すにはどうしたらいいだろうか。
これまでみてきた通り、単に無音(無曲)で踊るだけでは不十分だ。
ダンスと音楽が同じくらいの強さを持っていることを証明するには、「ダンスと音楽が一緒に存在しながら、互いに依存しない形」を作る必要がある。

どうやって?

じつは昨年、マース・カニングハムは生誕百周年だった。日本ではビックリするくらいの無風状態だったが、世界中で記念行事が行われた。オレが取材に訪れたフランスのモンペリエ・ダンス・フェスティバルでも様々なイベントや公演で「カニングハムがいかに現代のダンスに繋がっているか」を再検証していた。
そのとき観客に配られたものがある。

サイコロだ。

このサイコロこそが、この疑問に対するカニングハムの歴史的な回答の最大のヒントなのだ。

●マース・カニングハムの破壊力

では解答を言おう。
答えは「チャンス・オペレーション」。創作の過程に偶然性(チャンス)を持ち込むというものだ。
カニングハムの盟友だったジョン・ケージが提唱したものだった。

もともと芸術は、「隅々まで作り手の創意と意図が充溢している物」と考えるのが普通だった。だからこそ一枚の絵の隅に描かれた小さなアイテムや、楽譜の音符や指示の細部まで、分析研究してアーティストの意思を読み取ろうとする。

しかしそこに、作者の意思や意図とは全く関係のない要素を入れようというのが「チャンス・オペレーション」。
それ、お前の作品といえるの? 創作者としての責任の放棄じゃない? と考える人も当然出て来るだろう。

そこでカニングハムが採った方法は、こういう非難を巧みに回避しつつ、しかも「ダンスと音楽が一緒に存在しているのに、互いに依存しない形」を実現するものだった。

〈音楽とダンスの共存と非依存〉
  • まず音楽とダンスを別々に作ります。
  • 次にその音楽とダンスを、本番で初めて一緒に合わせます。
  • ダンサーは音楽に乗ることなく、厳密にあらかじめ振付けられたカウントに従って淡々と踊ります。

当日初めて合わせるので、ダンスが音楽に依存することはない。
両者が対抗しうる力を持っていることを示せるだろう、と考えたのだ。

●踊る前にサイコロを振れ!

だが観客は自分の見たいように見る。
いくら関係ないと言ってもダンスと音楽が一緒に流れてくれば、「ひとつのもの」として見ようとする。

「振付家やダンサーは、無意識のうちに表現してしまっている、ということもあるんじゃないかなぁ。現代社会のひずみとか。生命の輝きとか。僕にはそう読み取れたけど。ま、作っている本人は意外とわからないものなんだよね」

とか言い出す連中は、かならずいる。
誤読は観客の権利でもある。コントロールするのは難しい。
……と、普通なら諦めるところだ。

ところがカニングハムは違った。しつこかった。
観客の勝手な解釈すら封じようとした。

ここで読者も立ち止まって考えて欲しい。

【問い】
こういう観客の「本能的な思い込み」を封じるダンス作品を作るには、どうしたら良いか?

【答え】
ここでサイコロが出てくる。
カニングハムが採ったのは「偶然性の導入」である。

〈カニングハムのチャンス・オペレーション〉
  • まず上演時間が同じ長さのダンスの振付と曲を作り、6つのパートに分けます。
  • それぞれのパートに1から6まで番号を振ります。
  • サイコロを振ります。
  • 出た目の順番で、その日の上演順を決めます。

たとえば今日はダンス「356142」、曲「215364」の組み合わせ。
明日はダンス「564213」と曲「426153」の組み合わせ、というように。
曲は淡々と流れ、ダンサーは淡々と踊る。

もしも客が、その日の上演に何かの意味を読み取ったとしても、「それはたまたまその日のサイコロの結果なんで。作者の無意識が反映される余地などないっす」というわけだ。

まあちょっと病的というか、徹底している。
だがそのおかげで、ダンスと音楽は、それぞれ独立し、かつ共存し、同等の強さを持っていると示されたのである。

おそらくはダンスの歴史上初めて、音楽とダンスは互いの依存から解き放たれ、完全に独立した存在として舞台空間に提出されたのである。

そしてダンスは「気持ちよく踊れれば良いじゃん。それを見てれば楽しいし」という条件反射的な快感から、知性をもってより多角的なアプローチが可能になり、ダンスの概念そのものが広げられていったのである。

「音との関わり方」そのものがテーマになる

さてここまでをまとめてみよう。オレは、

〈ダンスと音楽との3要素〉
  • 合致:曲に完璧に合わせていく本能的な楽しさ
  • 差異:それをずらして踊る遊び心
  • 分離:ダンスと曲を切り離し、かつ両立させる知的挑戦。無曲を含む。

を提唱したい。
コンテンポラリー・ダンスは、たいていこの3つの要素を組み合わせて曲を使っている。
そしてもちろんこの「音との関わり方」そのものがテーマになっているもの少なくない。
以下に、実例を挙げてみてみよう。

●87歳でiPodを使った作品を

……と、ここでまた登場するのがカニングハム。この人、骨の髄までアーティストというか、iPodが出てきた時には、いち早く作品に取り入れているのだ。

〈カニングハムの『eye space』(2006年) 〉
  • 観客全員にiPodを配ります。
  • ダンスが始まると、観客はiPodを起動します。
  • 観客のiPodにはランダムで違う曲が流れてきます。
  • 観客は同じ空間で同じ舞台を共有しているわけですが、「この曲とこのダンスの組み合わせ」は自分一人のもので、誰とも共有していません。

「音とダンスの関係そのものが作品のテーマになる」という好例といっていい。
ちなみにこの時カニングハムは87歳。スゲエ人だね。

●交響曲など、一曲丸ごと使う

前回は「歌の一曲使い」について触れたが、交響曲などを、一曲使いする作品もある。長いし、バレエ曲ではないので必ずしもダンスに向いているとは限らない。

内容とスケールで特筆すべきは、モーリス・ベジャールの『第九交響曲』(初演1964年)だろう。
ベートーヴェンの『第九』のフルオーケストラにソロ歌手と合唱団に対し、80人を越えるダンサーで正面から挑む大スペクタクルである。総勢350名にも及ぶ大作のため長く上演されなかったが、東京バレエ団創立50周年(2014年)のおり、東京バレエ団とモーリス・ベジャール・バレエ団の共同制作で復活上演された。初演が東京オリンピックの年、そして二度目の東京オリンピックのはずだった今年にも、この大作が上演される予定だったが、コロナの影響で中止になってしまった。上演が難しい作品なだけに残念だ。
2020年はベートーヴェン生誕250周年でもあったのに。

さて日本にもこの大曲に挑んだアーティストがいる。
森下真樹は、『ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」全楽章を踊る』(2017年)で、なんとこの大曲にソロで挑むという無謀とも思える挑戦。タイプの異なる4人に振付を依頼しているのだが(MIKIKO、森山未來、石川直樹、笠井叡)、石川の本業は写真家だ。石川は森下を富士登山に連れ出しその映像を使うなど、振付けへの挑戦に満ちていた。

しかも森下は『ベートーヴェン 交響曲第9番 全楽章を踊る』(2019年)にも挑んでいる。これは若手ダンサー達と立ち上げたカンパニー森下スタンドの公演である。10人のダンサー達が、音に動きをはめたり外したり、大きな流れの中で疾走感のある舞台を作った。

●ミニマル・ミュージック

あるフレーズを反復させていくミニマル・ミュージックは、コンテンポラリー・ダンスと相性がいい。
特に人気があるのはスティーヴ・ライヒフィリップ・グラスだろう(グラス自身はミニマルではないと考えていたが)。
繰り返しだが精密な計算で微妙にずらしていく、理知の極みのような音なのに、積み重なると次第に水の流れのようなうねりを生み出す。知性と情緒が驚異的な高みで融合する。

だがこの二人は、ちょっと気軽に使うというわけにはいかない。曲と対決するだけの気構えが必要だ。
特にライヒを好み、かつ名作を多々生み出しているのがベルギーを代表するカンパニー「ローザス」アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルである。楽譜を音符単位で解析し、ダンサーたちにも教え込む。『Fase』(1982年)、『ドラミング』(1998年)。振付も繰り返しながらずらし、進化させていく。ダンサーが移動する床にはオウム貝の美しい曲線「ベルヌーイの螺旋」が描かれ、踊るダンサーの数も1, 1, 2, 3, 5, 8……とフィボナッチ数列に沿って増えていく。むろんダンスそのものがエネルギーに満ちている。

彼らもまた、研ぎ澄まされた知性が情緒をも生み出す好例である。
音楽とダンスを真の意味で分離したのはカニングハムの偉業だが、日本ではカニングハム作品の大々的な公演はここ数十年行われていない。2019年、世界中で行われたカニングハム生誕百年のイベントも、日本ではさっぱりだった。
対するローザスの来日公演数は、ちょっとすぐには数え切れないほどの人気だ。出演者も多く規模も大きめな作品にもかかわらず、来日公演が多いコンテンポラリー・ダンス・カンパニーとしてはトップクラスの人気を誇る。
その秘密の1つが、この「研ぎ澄まされた知性が生み出す情緒性」だと思うのだ。
ライヒの音楽は、なまなかなダンスを寄せ付けないほどの緊密さで、まるで織りが密すぎて針を通さない堅い布のようなものだ。だが一度そこを突破すれば、素晴らしい刺繍が花開いていくのである。

●ペルトとバーバー、みんなで使いすぎ問題

逆に、みんなちょっと気軽に使いすぎじゃね? と思う曲もある。
適度に情緒的で、一発で舞台上の空気を変えてくれる。
しかもどんな作品に使ってもしっくりと馴染んでしまい、つまらない振付も中身があるように見せてくれる……そんな魔法のような音楽がある。

その筆頭がこの二人。
アルヴォ・ペルト『鏡の中の鏡』『タブラ・ラサ』
サミュエル・バーバー『弦楽のためのアダージョ』
である。

わかる。わかるよ! 緊張と慰撫が共存するペルト、荘厳だが切なさがこみ上げてくるバーバー。そりゃ使いたくなる。オレも使うなとは言わん。言わんが!

使う以上は、

  • 「またこの曲!?」「安易な選曲」と思われるリスク
  • 過去、この曲を使った名作を思い出され、比較されるリスク

は十分に検討しておくべきだぞ。

これに準じて言うと、ヨハン・パッヘルベル『カノン』(と、戸川純『蛹化の女(むしのおんな)』)、ギャビン・ブライアーズ『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』、各種ホーメイホーミー等の倍音の喉歌等々。
このところ落ち着いているが、一周回って若いダンサーが「新しい」と勘違いして安易に使いがちなので、くれぐれも注意してほしい。

●パフォーマーが作曲者

ちなみにKENTARO!!は、舞台上で使う音楽も歌も自分で作っているという。

これはけっこう根が深い問題で、日本でダンス作品のDVDがほとんど出ないことにも関係している。
ふつうダンス公演は何曲も使っているので、DVDを作ろうとすると、音楽著作権協会という悪の組織がやってきて、制作費を何倍にも跳ね上げてしまうのだ。海外ではそれは「国民の財産」として美術館や政府が用途を限定するなどして権利関係をクリアしているのだが、日本では音頭を取ってくれるところがない。

なので、将来的にDVD化を考えているのならば、はじめからそういう契約をしたミュージシャンに全曲書き下ろしてもらった方が安く上がるし、実際そうしているところもある。

●生演奏には気をつけろ!

生演奏とどう関わるか。
これはほんと、ダンサーのみんなは気をつけた方がいいぞ。
あいつら、カッコいいからな。
ミュージシャンは人前で演奏する経験は散々積んでいるし、演奏する姿は一切無駄のない動きで機能美があり、しかも自信満々で魅力的だ。
前でドタバタやってるダンスより、後ろでクールに演奏しているミュージシャンの姿に見入ってしまうのは、じつによくあることなのだ。
ダンスを見なきゃいけないオレでさえそうなんだから。

ミュージシャン本人がパフォーマーということもある。
たとえばタップダンスと演奏が一体化している。
とくにセヴィオン・グローバー直伝の、「見せるよりも、音を聞かせるためのタップ」を受け継ぎ、本場アメリカのナショナル・タップデイのオープニングを飾った初めてのアジア人・熊谷和徳は、金森穣をはじめ多くのダンサーやミュージシャンと共演している。

オランダ拠点の世界的なピアニスト向井山朋子は、アーティスト・パフォーマーとしても作品に関わる。日本でも『La Mode(ラ・モード)』『シロクロ』などがある。
よくある「ミュージシャンがダンサーと笑顔を交わして演奏しながら踊りだし、二人だけでお祭り感をかもしだして観客がシラケる」というものとはレベルが違う。
向井山は演出段階から関わり、必要ならば上半身が裸でもピアノを弾き、ダンサーとからむのだ。
音楽とダンスを等価に扱う、と口で言うのは簡単だが、向井山は圧倒的な技倆のピアノと存在感で舞台上に君臨するのである。

ダンスと音楽の関わり方として、これと真逆だったのが、「白井剛×アルディッティ弦楽四重奏団」だった。難解と言われる現代音楽も確固たる技術と親しみやすさで演奏し、世界中で愛されているアルディッティ。白井が共演すると聞いたときは一体どうするのかと見守った。
しかし白井は、とくに何もしないというか。
演奏に直接関わることなく舞台のあちこちを歩き回り、所在なげに座っていたりしていたのである。

ダンスの究極にして基本は、「どう動くか」ではなく、舞台上に「どう存在するか」である。
その点、このときの白井は見事に「存在」してみせた。観客は最高の音楽を聴きながら、白井が次に何をするか、家の猫を見るような目で見守ったのである。

知性と身体でたどり着く

さて、長く見てきたように、いまダンスと音楽は、蜜月と別離を経て、新しい関係を築きだしたばかりだ。
音の魅力に乗るのもよし、離れるもよし。
「音とどう関わるか」ということ自体をテーマに踊ってもいい。
互いを束縛から解き放ち、いまダンスと音楽はそれぞれの場所で、より自由に羽を広げ、関わることができるようになった。

そしてこの新しい関係は、ただ感覚的に踊り演奏するだけではたどり着けなかったろう。
やはり「ダンスとは何か、音楽とは何か」を、知的な作業をもって考察し突き詰め、身体をもって実証していく、そういう作業の積み重ねの上に勝ち得た成果なのである。

「コンテンポラリー・ダンスは何でもあり」という自由さは、そうしたたゆまぬ知的身体的な挑戦の結果、獲得されたものだということを忘れないでほしい。何の努力もしない者がテキトーなことをやって「なんでもありだから」と開き直るのとは、言葉の重みが違うのだ。

 

……さて連載開始早々、2回連続で大幅に文字数をオーバーしてしまった。
ので、次回は、ちょっと目先を変えたい。

そこで第4回は「舞台におけるセンター問題」について考えてみる。
バレエには不可欠な「センター」の視点。
コンテンポラリー・ダンスはどう挑んできたか、見ていくことにしよう!

★第4回は2020年6月10日(水)更新予定です

投稿 バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第3回・後編〉ダンスと音楽ーー知性と身体性の果てしなきバトルバレエチャンネル に最初に表示されました。



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