中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.5

海外ツアーで世界を巡る

カンパニーを世界中に連れていってあげたい、ダンサーに世界を見せてあげたい、という気持ちがキリアンの中に強くあり、実際当時はとてもたくさん海外ツアーがありました。もちろんツアーにはキリアンも同行します。カナダ、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、ロシア、イスラエル、韓国、ニュージーランド、オーストラリア……。カンパニー自体の最盛期でもあり、世界中どこに行ってもNDTは大人気でした。

とりわけ記憶に残っているのが、NDT2で行った旧オランダ領カリブ海のツアーです。あの辺りは島によってはドラッグの流通の中心地になっているところがあり、街も荒み、貧困がはびこっています。まず街に劇場というものがほとんどなく、公演会場も公民館の庭につくった仮説舞台だったり、小学校の体育館や講堂、バスケット用のコートを使ったりと、非常に簡易的な舞台になっています。ホテルも数が限られていて、全部で数部屋しかないお金持ちの人たちが泊まる高級ホテルがひとつと、寝床は雑魚寝でシャワーをひねると塩の水が出てくるような宿泊所しかない島もありました。14人いるメンバーのうち数名は高級ホテルに泊まり、残りは宿泊所で雑魚寝をして、翌日取り替えっこをする……、といった状態です。その後いろいろなツアーに行きましたが、今思い返してもあれが一番ワイルドなツアーだったような気がします。

南米ツアーで行ったブエノスアイレスやリオデジャネイロも大きな衝撃を受けました。私たちの踊る劇場は目抜き通りにあって、舞台を観に来るのはお金持ちの人たちばかり。でもちょっと歩くと塀で囲まれた場所があり、中を覗くとスラム街になっている。格差社会を実感したはじめての光景でした。現地でタンゴ・バーにも行きました。楽団がタンゴの演奏をはじめると、誰かのもとへ知らない誰かが目配せでやってきて、何も話さず一小節踊ります。次の小節で少し話をして、踊り終わったらそれぞれの席へ戻っていく。楽しんでいるというよりは、人生の苦悩を秘めて踊っている感じ。それが何ともステキで強烈に心打たれました。

ロシアも印象に残っています。ホテルから劇場に行こうにもタクシーがないので、白タクをつかまえなければなりません。ツアーで行ったあたりはレストランがなく、食事は劇場で済ますかホテルで食べるかの選択です。移動のたびに毎回白タクとの交渉で、それはもうスリル満点でした。私は地下鉄に乗るのもすごく好きで、ツアーに行くたび地下鉄に乗っています。ロシアの地下鉄にも乗りましたが、エスカレーターが木でできていて、味があって本当にステキでした。

南アフリカのツアーでは、オフの時間を使って国立公園のサファリツアーに参加しました。当時はアパルトヘイトが終わって人種差別がずいぶん向上してきたころ。サファリツアーはもともと現地で暮らしていた人たちの生活を体験できるというもので、とてつもなく広大な自然公園の中をジープに乗って動物たちに会いに行きます。ゾウの子どもが歩いてて、ジープで近づいていったら雄の象がすごい勢いで突進してきた。ジープの運転手はこれ以上ない猛スピードでバックしていきます。ゾウといえばそれまで動物園でしか見たことがなかったので、はじめて間近で見てもうびっくりでした。

ものすごい静けさ、というのもはじめての経験でした。見渡す限りの平原が広がっていて、動物たちが遠くの方を横切っている。何処を目指しているのか、すごくゆっくり歩いている。それはもう私たちが知っている空間や時間の流れではありません。何の物音もしない世界の中で、何かが静かに聞こえてくる。これは風の音なのか、耳鳴りがしているのか、自分の血が流れてる音なのか。綿の上を歩くかのごとく静かに動物たちが歩いている風景、音のないところに聞こえてくる正体のわからない音……。そこで体験した瞬間は、後々自分の創作に影響を及ぼしてくことになります。食べたことのない食べ物を食べたり、聞いたことのない言葉の中にぽんと放り出されて生活をする。知らない土地に行って知らない文化に触れる、それはとても触発されるものがありました。

カンパニーには12日以上連続で仕事をしてはいけないという決まりがあり、移動日以外に必ず休みが取れるシステムになっています。例えば米国大陸をまわるようなツアーや、アジアとオセアニアを繋げて巡るような長いツアーの場合、ツアー先で休みがちょこちょこ入ってきます。なので上手く使えばオフの時間も充実したものになってきます。

ツアーでは現地に着いた日とその翌日は完全フリーで、脚のむくみやジェットラグの解消にあてられます。3日目にクラスがあり、その次の日からゲネ、本番、という流れになっています。出発はたいてい早朝で、朝5時にロビー集合、というようなことも多くありました。全部で50名にもなる団体での移動なので、やはりいろいろ時間がかかり、どうしても早めの行動が必要になるという訳です。本番が終わるのが23時半で、翌日の集合が早朝となると、普通は早めに休んで翌朝に備えるもの。でもなかにはナイトクラブで一晩中踊っては、みんなが朝集合する頃になって、“ただいま!”とホテルに帰ってくるような人もいましたね。

 

1997年、NDT1時代の公演パンフレット。オハッド・ナハリン『Diapason』、ギディオン・オバーザネック『Corrupted』ワールドプレミア。同時上演イリ・キリアン『Bella FIgura』。

 

バッハへの想い

昔からバッハの音楽に特別な想いを抱いていて、曲を聴くたび“同じ人間なのにどうして彼はこの境地まで到達できたんだろう?”と思ってしまいます。バッハの音楽を聴くと心洗われるし、“なんて崇高なんだろう”と感じつつ、“どこをどう乗り越えたらもっと彼に近づけるんだろう”と思わずにいられない。尊敬すると同時に嫉妬を覚えてしまう。もちろん嫉妬するようなレベルの相手ではないけれど、まるで嫉妬のような、心がちりちりするような気持ちです。以前母に“バッハに嫉妬するの”と話したら、“何バカなこと言ってるの?”と呆れられましたけど……。

ベートーヴェンの曲で作品もつくったし、モーツァルトもすごく好きだけど、ああいう気持ちには何故かならない。あそこまで心の中が掻き立てられるのはどうしてなのか、何か惹かれる特別な要素があるんだろうなと思っています。ダンサーに対してライバル心を持ったり、特に気になるようなこともないのに、この感覚は自分でもすごく不思議です。ただダンサーのなかには、他のダンサーに対していろいろ思う人もいるようです。

フランスに初めて行ったとき、パリにあったルーブル・バレエ団というバレエ団の『ジゼル』に出演する機会がありました。バレエ団を解散することになり、その最後を飾るかなり大きな公演です。ベテランのノエラ・ポントワがジゼルを踊り、私はまだ新人ながらミルタを踊らせてもらえることになりました。本番の日、楽屋に入って靴を脱いだら、何かしゃりっと踏みつけた。“あれ、何だろう?”と思ったら、細かいガラス片だった。それが部屋中に散らばっていて、危うくケガをするところでした。

『One of a Kind』の初演時もそんなことがありました。舞台で踊っている最中ずっと膝の後ろに違和感を覚えていましたが、私の役は3幕の間中出ずっぱりなので、途中で舞台を去ることはできいません。ようやく幕が降り、あらためて膝の後ろを見てみたら、衣裳に針が仕込んであった。膝の後ろに針が刺さり、すっかり血だらけになっています。衣裳さんには“ちゃんと針の検査をしているからこんなことはないはずなのに。本当に申し訳なかった”と言われましたけど……。

私自身とある事件に巻き込まれ、危うく犯人にされかけたこともありました。ポール・ライトフットとソル・レオンが出演していたデュエットで、作品の最後に上から白い粉が振ってくるといううつくしい作品です。私はセカンドキャストとしてリハーサルに参加していて、本番の前遅くまで劇場で彼らふたりと一緒に残って練習をしていました。公演直前に舞台監督が何か違和感を感じて調べたら、白い粉の中に胡椒が仕込んであった。もしそのまま本番を迎えていたら、どうなっていたことか……。“最後まで彼らと一緒に残っていたのは恩恵だよね?”といわれましたが、もちろん私はそんなことはしていない。結局犯人はわかりませんでした。そうしたことも、ライバル意識や何かの腹いせということだったのでしょうか。私が気付いてないだけで、もしかするといろいろなことが起こっていたのかもしれません。

 

1999年のNDT1日本公演のパンフレット。彩の国さいたま芸術劇場で『One of a Kind』を上演。

 

ツアー先でおいてけぼりに

昔からすごい方向音痴で、それゆえの失敗をこれまでたびたび繰り返してきました。舞台に立つと、どちらが正面でどちらが後ろなのかわからなくなることがよくあります。舞台で踊る自分のことを“お客様から見るとこう見えるはずだ”と思ってしまうのか、全部反転して踊ってしまったりする。また集中して踊っているときに限って、そのクセが出てくることが多いんです。

一番大きな失敗は、Hans van Manenの『Squares』に出演したときのこと。暗闇に包まれた舞台の上を、白い総タイツ姿のダンサーたちが走りまわり、それをブルーライトが照らしてる。ぱっとライトが変わるとデュエットがはじまる、というシーンです。わーっと走ってふっと立ち止まったら、どこが正面なのかわからない。“あれ、私は今どこにいて、どこが正面で、どこにいなければいけないんだろう?”と、すっかり迷子になってしまった。よくよく周囲を見渡したら、自分のパートナーが舞台の反対側にいる。“どうしよう、あそこに行かなきゃ”と考えて、とっさにそのまま反対側までちょこちょこと移動していきました。何を血迷ったのでしょうか、今考えるともっとマシな移動の仕方はなかったものかと思います。しかもそれはオランダ・ダンス・フェスティバルの初日で、女王様が観に来られているという大切な公演です。

本番の後に会場で知り合いとばったり会って、“今日の舞台ですごい失敗しちゃって……”と話し込んでいたら、すっかり時間が経っていた。ふと気づけば同僚たちが誰もいません。バスが出発した後で、知らないうちに置いてけぼりをくっていたんです。高速道路を走りながら、みんなが“さっきの恩恵の失敗すごかったね。そういえば今日は何だか静かだね”なんて話をしていて、“あれ、いない?”と気づいて引き返してきてくれた。大失敗続きの一日です。NDT2時代のことでしたけど、もはやああなると怒られもしなかったですね。

キリアンはまず怒ったりしない人。とても言葉が巧みで、いろいろな表現を駆使しながらダンサーの中から緊張感や特別な瞬間を引き出していく人でした。キリアンに限らずNDTの人たちはみんなジェントルマンで、怒られた覚えはほぼありません。私がカンパニーを辞めた後、フランスから来たバレエマスターがすごく怒る人で、ダンサーがかちかちになってできることもできなくなってしまったという話を聞きました。“私たち普段こういう体験をしていないから打たれ弱いね”、と言っていましたけど、確かにそうかもしれません。

日本で振付をはじめた頃、ダンサーから“恩恵さん、怒ってくれていいんですよ”と言われたことがありました。ダンサーによってボキャブラリーが違ったり、それぞれのダンサーにとって一番いい動きがなかなか見極められずに少し遠回りしていたのを、彼女も感じ取っていたのでしょう。でも私自身、教育を受けていたときもプロになってからも、怒られるという経験をしてこなかった。だから“怒るってどういうことだろう?”と、そこで改めて考えさせられてしまった。

時折能など伝統芸能の方と一緒に仕事をすることがありますが、ああした師弟制度の世界では厳しく叱りながら指導されている様子をよく目にします。以前鼓の人間国宝の方とお話させていただいたとき、やはり“自分もすごく怒られながら教わってきた”と言っておられました。その方は“怒るというのはその瞬間を覚醒させることによりその瞬間の風景をキャッチできるようにするためのものであり、たまに怒られるのはいいけれど、ずっと怒られ続けていると神経が麻痺してしまう。それはすごく恐ろしいことだから、ずっと怒り続ける教育は辞めた方がいい”とも話されていて、すごく思うところがありました。緊張感で目覚める瞬間というのは確かにある。大事なのはその感覚を自分自身で持続することだと感じます。

 

1997年、NDT1時代の公演パンフレット。オハッド・ナハリン『Diapason』、ギディオン・オバーザネック『Corrupted』ワールドプレミア。同時上演イリ・キリアン『Bella FIgura』。

 

NDT外での創作活動

休日というのはカンパニーの仕事で疲れた身体を休めるためのものであり、リフレッシュするために使うというのが大前提。オランダの契約では休みも含めた年13ヶ月分のお給料が出ることになっていて、休み中は倍の月給が支給されます。休みの分もお給料を払っているのだからきちんと休んで欲しい、というのがカンパニーの言い分です。ただダンサーの中には休みを活用してNDT外で自分たちのプロジェクトをしたいと考える人もいて、カンパニーから許可が下りればそれも可能になっています。

同僚の中に10人のダンサーでグループを組み、カンパニー外で活動をしている人たちがいました。彼らはカンパニーとのネゴシエーションが上手で、なんだかんだと休みのたびに自分たちのツアーをしていましたね。またそうした中から将来ディレクターや振付家になる人もいるので、彼らのような人たちを全て封じ込めてしまうと芽が育たない。カンパニーとしてもある程度はネゴシエーションに対応するという訳です。

私も一度カンパニー外で大きな作品を手がけたことがありました。旧東ドイツ・ブランデンブルクの劇場からの依頼で、NDTの仲間と3人で作品をつくることになりました。私が18歳の頃ベルリンの壁がなくなり、東ドイツと西ドイツがひとつになった。作品をつくったのは私が27歳のときで、ベルリンの壁が壊れてまだ10年経っておらず、旧東側で訓練を受けたダンサーも現役で踊っていたりと、東西の統合によりいろいろな風が吹いている頃でした。

会場となったのはブランデンブルクにある修道院で、ヨーロッパで宗教改革がはじまる少し前、改革に向けたムーブメントが起こっていたとき中心的存在となっていた場所でした。修道院は第二次世界大戦時に空爆を受けていて、天上が全て落ちてしまってる。雑草が茂り、煉瓦がそこら中に転がっていたりと、すっかり荒れ果てた状態で、まるでタルコフスキーの映画に出てくるような光景が広がっています。修道院の一角に芝の生えた回廊があり、そこだけは空爆にあうこともなく昔のままの姿で残されていた。ひっそりと静かで、すごくうつくしい場所でした。そこでプロジェクトをすることにして、崩れ落ちていた煉瓦をいくつか柱のように積み上げて、手作業でひとつひとつきれいにしていきました。

公演の季節は夏。オーヴァートーンが流れる中、夕暮れの自然光のもとステージがはじまり、パフォーマンスをしているうちにだんだん星明かりが見えてきて、蝋燭が灯され、最後は闇に包まれる。非常に幻想的な光景だったと思います。ただそこに辿り付くまでが大変でした。

とても長く、大変な労力のいる公演でした。NDTの仕事だって忙しいのに、それこそ毎日徹夜をしてつくるような状況です。もちろんカンパニーに許可をもらわなければなりません。キリアンは“13ヵ月分お給料を渡しているのは何のためだと思っているんですか?”と言いつつも、外部での活動を許してくれました。私たちは許可をもらった上に、“キリアン・ファンデーションから資金を出してくれないか”と交渉までして、それも協力を得ることができました。やはりキリアンは作家ですから、つくりたいという気持ちは汲んでくれます。加えてキリアン自身東欧の出身で、共産圏だった場所のアーティストが次の表現を模索するという意味でも共感してくれたようでした。

共同で作品をつくった2人とはすごく仲が良く、いろいろなものを一緒に観に行ったり、論議したり、いつも行動を共にしていました。ひとりはディラン・ニューコムというアメリカ人で、彼はもともとNYのジュリアード音楽院の作曲科で音楽を学んでた人。作曲科時代にダンスに目覚め、NDTに入ってきたという変わりだねです。彼は瞑想に興味を持っていて、後にダンスを辞めてNYに戻り、グルのようになってムーブメントの指導をすることになります。もうひとりがイヴァンデュブルイユというフランス人で、パリのコンセルヴァトワールから来たエリートダンサーです。イヴァンはとても知的で文化的な知識もあれば、政治のこともよく知っていて、加えてスポーツもできる人。3人で振付けていたけれど、それぞれの役割や比重は少しずつ違っていました。デュランは作曲もすれば振付けもする。私は表現者であり、振付もした。イヴァンは直感的に見て修正することが上手い今でいうドゥラマトゥルギーのような役割で、具体的にステップをつくったりするより頭で構築していくタイプのダンサーでした。

3人とも微妙にNDT2にいた時代が重なっていて、イヴァンが最初にNDT2に入り、私がその後入団し、イヴァンがNDT 1に上がった頃にディランがNDT2に入ってきた。彼らとはNDTを離れた後も付き合いが続き、フリーランスになってからもたびたび一緒に作品をつくっています。

 

1999年のNDT1日本公演のパンフレット。彩の国さいたま芸術劇場で『One of a Kind』を上演した。

 

1999年、NDTを退団。

気づけばNDTに入って9年の月日が経っていました。長いこと同じカンパニーにいると、だんだんそこが自分のアイデンティティになってくる。朝から晩までスケジュールが決まっていて、お給料も決まっていて、生活のパターンというものができてくる。そうなるとそこから離れた自分を想像できなくなって、離れるのがすごく怖くなってくる。また怖くなっている自分のことが自分でイヤになってくる。

あるとき脚の靱帯を痛め、6週間カンパニーを休むことになりました。そのときはじめてカンパニーに長い時間行かずに過ごすという経験をしたけれど、全くもって問題なく暮らす自分がいた。“あぁ、全然大丈夫だ”“これはもしかしたら潮時なのかな”とそのとき思った。ケガから復帰し、NYツアーで『One of a Kind』を踊り、それが最後の舞台になりました。

通常退団するときは12月のミーティングで辞めるという意志表示をして、その空きを埋めるためにカンパニーはオーディションを開催し、新しいメンバーを募集します。次年度のプログラムがかなり前の段階で発表されるので、カンパニーを離れる場合は数ヶ月前に意思表示をする決まりになっているんです。ルールに則ればペナルティなしで辞められますが、私が伝えたのは12月の時点ではなく、最後のツアーに出る前に“やっぱりこの舞台でカンパニー離れます”と言いました。ケガをしたのが春で、カンパニーを辞めたのは7月だったので、かなりぎりぎりのタイミングです。キリアンは“『One of a Kind』も踊って、多くの創作を一緒にしていきたかったのに残念だ”と言ってくれました。

1999年にNDTを退団しました。辞めた後のことは考えていませんでした。ノープランです。他のカンパニーに移籍しようとは全く考えませんでした。かといってNDT3に行くという考えもなかった。NDT3は私の退団後もしばらく活動をしていましたが、やがてプロジェクトカンパニーのような形に変わっていきました。もともとゲストダンサーを集めて公演をするプロジェクトカンパニーの形ではじまり、そこから固定メンバーになり、またプロジェクト化してより流動的な形態になっていった。今でもNDT3でつくった演目を持ってツアーをすることはあるようです。

 

9年は長いか

私が思うに、NDT2からそのままNDT1に上がって踊り続けている人、NDTしか体験したことのないダンサーは長くカンパニーにいるパターンが多く、そのまま定年退職まで在籍していたりする。NDT3が40歳からなので、NDT1にいるのはたいてい39歳くらいまで。ぎりぎりまでNDT1で踊り、そこからバレエマスターになって、そのままハーグに住み続け、NDTとずっと関わっていく。一方で自分のキャリアアップを目指してカンパニーを転々とする人もいて、彼らはひとところにあまり長く定着することはなく、一時期所属してもまたどこかへ移っていきます。

女性ダンサーの場合はもうひとつ壁があり、キャリアを続けていく上で、出産という岐路に突き当たることになります。子どもを生むか生まないかの選択をどこかで想いつつ踊り続け、30代中盤になるとタイムリミットを考えるようになり、けれどその頃はベテランで一番あぶらが乗ってくる時期だったりする。そこでどんな選択をするか。

結婚しても子どもを生まずにダンサーに専念する、という風潮がカンパニーの中でしばらく続いた時期がありました。そんななか誰もが認めるザ・ベテランダンサーが子どもを生み、あっという間に復帰してきた。それをきっかけにカンパニーの中でベビーブームが起こり、子どもを生む人が一気に増えた。けれどベテランの彼女もふたり目の子どもが逆子で大変な難産になり、ダンサーを続けていくのが難しくなってしまった。現役を退いてバレエマスターになったけど、バレエマスターもツアーが多く過酷なので、それも結局辞めて学校の先生になった。

ダンサーは出産のぎりぎりまで動くことが多く、そのため難産になったり、産後の肥立ちが悪くなるパターンも多いようです。またそうした苦労が重なり、マタニティ・ブルーになる人もいる。一時期ベビーブームが起こったけれど、その後は逆に出産に対する難しさをみんなが感じることになった。出産後にカンパニーへ戻りはしたけれど、実際問題ダンサーとして復帰するのは難しく、舞台に乗れないまま在籍するような人も多く出てきました。形式的には復帰しているので、ダンサーを新たに採用することはできません。16人しかダンサーがいないのに4人が休みというようなことになると、それ以外のメンバーが大変な負担を背負うことになる。女性ダンサーはそこで辞めていくことも多く、そういう意味では男性ダンサーの方がキャリア形成が優しいと言えるでしょう。

私は29歳までカンパニーにいましたが、在籍中は子どもや家庭については全く考えることはありませんでした。私が子どもを出産したのは、カンパニーを辞めた後のことでした。

 

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