中村恩恵ダンサーズ・ヒストリー vol.2

黒鳥のグランフェッテでプロ・デビュー

大学進学は考えていませんでした。“コンクールの結果がダメだったら?”とは考えていなかったけれど、かといってその先の具体的な計画も全くなかった。同級生はどんどん進路が決まっていくのに、私は“これからどうしよう?”と模索しているような状態です。親も心配ですよね。

当時は海外のバレエ団の情報源といえば、ダンス専門誌をチェックしたり、周りの人たちから話を聞く程度。たとえ情報を得たとしても、そこにどうアプローチしたらいいかわからない。未来を切り開こうにも、今のように自分であれこれ調べる手立てもあまりない。自ら何かに働きかけていくというよりは、たまたま自分のもとへ訪れたものがその後の人生の窓になっていく。私の場合はそうして次のステップへの扉を開いてきたように思います。

 

 

海外へ渡る“窓”になったのが、高校三年生のとき神奈川県民ホールで開催されたフランス・ユース・バレエ(JBF)の来日公演。自分と同年代の人たちがフランスのヌーヴェルダンスを踊っているのを観て、“こういう踊りがあるんだ!”とすごく惹かれるものがありました。折良くローザンヌ国際バレエコンクールを通じた縁があり、翌日の公演前にカンパニーのレッスンに参加させてもらえることになりました。カンパニーと一緒にレッスンを受けた後、バレエマスターに“ローザンヌで踊ったヴァリエーションを見せてくれ”と言われ、急遽レッスンピアニストの生伴奏でみんなの前でソロを披露しています。

その夜のことです。カンパニーのディレクターから自宅に電話がかかってきて、突然“グランフェッテできる?”と聞かれました。ディレクターいわく、“カンパニーの女性ダンサーがホテルのプールで滑って転び、全治数ヶ月という大ケガをしてしまった。黒鳥のシーンで32回のグランフェッテがあるのだけれど、5人いる女性ダンサーの中で唯一それができるのが彼女だけだった。フェッテができるダンサーを探している”という。

ディレクターに“彼女のかわりに一緒にツアーに参加してくれないか?”と言われ、私は“はい!”とその場で即答し、次の公演先である大阪公演からツアーに参加することになりました。私の出番はチュチュを着て32回のフェッテを回る黒鳥のシーン。プロとして踊ったのはそれがはじめての経験でした。

 

 

ユース・バレエと共にパリへ

ツアーに参加したのは高校を卒業してすぐの頃。日本ツアーが終わると、その流れで彼らと一緒にパリへ行くことになりました。季節は春で、パリへ着いたらマロニエの花が町中にたくさん咲いていたのを覚えています。父がパリまで一緒に来てくれて、父と一緒に朝ご飯を食べてからバレエ団に初出勤しています。

異国の地で、はじめてのひとり暮らしです。とはいえ大きな戸惑いはなかったように思います。フランス語は工藤先生のもとに短期留学をする際ラジオ講座で勉強していたのと、ユース・バレエと共にフランスに行くと決まったときに語学学校で個人レッスンを受けていたので、基本的なことはたいてい話せるようになっていました。加えてバレエ団のディレクターが語学留学でパリに来る学生のための専門学校に通えるように手配してくださって、朝のレッスンがはじまる前に学校へ通ってフランス語の勉強をすることになりました。

またディレクターはバレエ団のほかに、パリの有名なバレエ教師たちのレッスンを受けられるように取りはからってくださいました。パリ・オペラ座バレエ団やコンセルヴァトワールの生徒たちがプライベートでレッスンに来ているようなクラスです。いわばパリでも生え抜きのエリートの若者たちが集まっていて、彼らとのレッスンは大きな刺激になりました。

ユース・バレエのスケジュールは例年同じで、まずパリで三ヶ月かけて作品の大枠をつくり、同時にリハーサルをして、あとはずっとツアーであちこち巡ります。私の出番は当初32回のグランフェフェッテだけでしたが、『白の組曲』のシガレットのヴァリエーションに、シルフィードやイサドラ・ダンカンの踊り、全員が出演するスペイン風の踊りなど、どんどん出番が増えていきました。何しろダンサーは女性5人・男性6人の計11人しかいないので、全員フル稼働で踊っていましたね。

ヨーロッパのバレエ学校の卒業は16歳〜18歳。でもその年齢で急にプロのバレエ団に入っても、他のダンサーたちとの間にギャップが生まれてしまう。そのため多くのバレエ団がスタジエール(研修生)制度を設けています。ただスタジエールというのはできることが限られていて、カンパニーで朝のレッスンを受けた後はみんなのリハーサルを延々と見ているだけだったりと、実地で踊る機会を得るのはなかなか難しい。学校を卒業した人たちがプロとして即戦力になるよう舞台を踏んで経験値を積む場がユース・バレエであり、学校とカンパニーの橋渡し的存在でもあります。ヨーロッパではそうしたシステムを取っているカンパニーが多数あって、バットシェバ2やNDT2もそう。

フランスの場合ユース・バレエはダンサーのための教育的なプログラムであると同時に、若者の教育システムとしての役割も担っています。プログラムはバレエの歴史とフランス史を詰め込んだ学生用の内容になっていて、例えば農民の踊りやバロックダンスを踊るシーンがあり、そこにバレエの要素がもたらされていく過程や、フェンシングのポジションとバレエのポジションの類似点、さらにフランス革命といった歴史も踏まえつつ、その時代ごとの代表的な作品を紹介していきます。それを持って学校公演に行くこともあれば、学校の体育館で子どもたちにリトミックを教えたり、小学生がスタジオにレッスン風景を見学に来たり、といった交流の機会もありました。将来その子どもたちが観客になる可能生もあるでしょう。またダンサーの立場としては、バロックから最先端のダンスまで全て自身の身体で一回踊ってみることができ、観る側にも踊る側にも有意義なプログラムになっています。

ユース・バレエは一年契約で、夏でひとつのシーズンが終わり、ダンサーの顔ぶれも一年ごとにどんどん入れ替わっていきます。私が入ったのは5月とイレギュラーなタイミングでしたが、夏まで三ヶ月間踊った後、次の一年間も引き続きカンパニーに残ることになりました。けれど二回目のシーズンがはじまった頃、日本にいたときケガをした足首の状態がどんどん悪くなってきてしまった。これ以上踊るのは厳しいということで、ユース・バレエを退団し、日本に戻って手術をしようと決めました。結局ユース・バレエに在籍していたのは半年くらいのことでした。

痛めたのは靱帯で、全治8ヶ月という診断でした。11月に日本で手術をして、翌2月までギブスをはめて、松葉杖が取れてリハビリをはじめ、少しずつレッスンができるようになったのが翌年の春。ただヨーロッパのカンパニーの場合、ケガをするとお給料ではなく社会保障からオフの期間のギャランティが支払われる仕組みになっていて、再び舞台に立ったときが復帰の日とみなされます。レッスンは復帰にあたらないので、実際には8ヶ月よりもっと前から稽古をはじめています。

私が通っていたのはスポーツでケガした人を専門的に治療しているリハビリ施設で、患者はサッカー選手やアメフトの選手といった身体の大きな男性ばかり。バレエの世界とは全く様子が違います。みなさんスポーツに合わせたプログラムを組んで、それぞれ復帰に向けてリハビリに励んでる。バレエダンサーは私ひとりで、先生もはじめはどういうことをすればいいか試行錯誤していたようです。バレエというのはすごく特殊で、ある筋肉はやたらと発達しているのに、ある筋肉は弱かったりする。先生がバレエの身体を踏まえ、復帰に向けてプログラムを組んでくださいました。この筋肉をこう鍛えるためにこういうメニューを行う、といったトレーニングは経験がなかったので、非常に新鮮な感覚でした。

 

カンヌで再び学生に

ユース・バレエを辞めてワンシーズン過ぎた夏、リハビリを兼ねてフランスのカンヌ・ロゼラ・ハイタワー・バレエ学校に留学しています。そこはユース・バレエで出会った恋人の出身校で、彼に“バレエ団の夏休みに学校のサマースクールを受けに行くけど君も行かない?”と誘われて、私も一緒にレッスンを受けに行くことになりました。カンヌの卒業生は世界中のいろいろなバレエ団で活躍していて、夏休みになるとサマークラスを受けにまた学校にやってきます。彼らと会えたのはとても刺激的な経験でした。きっかけはサマースクールでしたが、私自身それまで一度もアカデミックなバレエ学校に属していた経験がなかったので、改めて学んでみようと考えて継続的に生徒としてカンヌに残ることに決めました。

レッスンはクラシックのほかにモダンやジャズのクラスもあって、そこではじめてクラシック以外のダンスを学んでいます。また当時ご健在だったロゼラ先生からレッスンを直々に受けることができたのもいい勉強になりました。とはいえ、ユース・バレエではお給料をもらって自分で生計を立てていたのに、親に学費を払ってもっているという現状が何とも情けなく感じられ、カンヌにいた頃は“早くまた自立したい!”という気持ちをずっと抱いていました。

学校に通い出して2〜3ヶ月経った頃には、足もずいぶん良くなってきました。“再び舞台に立てそうだな”という自信が自分の中に沸いてきて、学校に通いながらオーディション巡りをはじめています。そのなかのひとつ、ジュネーブのバレエ団は、イリ・キリアンやオハッド・ナハリン、マッツ・エックの作品をレパートリーに持っている前衛的かつ質の高いカンパニーで、当時若いダンサーたちがこぞってそこを目指していました。ここはプライベート・オーディションを受けていて、まずバレエ団と一緒に稽古に参加し、無事にクリアしています。二次審査はレパートリー審査でした。スタジオに呼ばれ、“レパートリーを踊ってみせるので、その場で覚えて踊るように”といわれました。見ていると簡単そうなのに、自分で踊るとなると難しい。“覚えられません”と言うと、“じゃあもう一回やるから覚えてね”とまた踊ってみせてくれるのだけれど、どうしても覚えられない。結局“もうちょっと経験を積んでからまた来てください”といわれ、確かにと……。

マルセイユ・ローランプティ・バレエ団のオーディションも受けています。会場に行ったらこれ以上入れないというくらい大勢の若者たちが集まっていて、スタジオから人が溢れてる。今のように書類やビデオ審査が事前にある訳でもなく、告知されるとみんながわっと詰めかけていたので、人気のあるカンパニーの場合そういうことがよく起こります。あまりにたくさん人がいすぎて、自分が踊ったかどうか実感もないままに、気付くとオーディションが終わっていました。

オーディション巡りでは、ユース・バレエの友人たちがいろいろ手助けしてくれました。友人のひとりに“母がカンヌの近くに住んでいるから泊まるといいよ”と言われて長く滞在させてもらったり、マルセイユ出身の友人が“マルセイユはとても治安が悪いから私の実家に泊まるといいよ”と世話してくれて、お母さまにバレエ団まで送ってもらってオーディションを受けに行きました。

夜行列車に乗ってフィレンツェの小さいカンパニーのオーディションを受けに行ったこともありました。前衛的な作品に取り組んでいるカンパニーで、いいなと思っていたけれどそこもだめ。モンテカルロ・バレエ団のオーディションはクラシック・バレエの審査しかなかったので、私にはラッキーでした。レッスン審査を無事クリアして、続く第二次審査はエシャッペです。“エシャッペならできる!”と思わずうれしくなりましたね。最終的にモンテカルロ・バレエ団から内定をもらい、オーディション巡りを終えています。

 

期間限定でアヴィニヨンに在籍

モンテカルロ・バレエ団に入団が決まったけれど、シーズンは次の夏からなのでまだ当分時間がある。当時恋人がアヴィニヨンオペラ座で踊っていたので、彼と一緒にアヴィニヨンへ行き、しばらくの間バレエ団の稽古を受けることになりました。アヴィニヨンのディレクターはフランスでも屈指のテクニシャンといわれていたダンサーで、彼のレッスンを毎日受けている内に私のテクニックもめきめき上達していきました。そんななかディレクターが“夏までの期間このバレエ団で踊らないか”と誘ってくださり、学校を辞めてアヴィニヨンに移ることに決めました。なのでバレエ学校にいたのは結局ほんの数ヶ月間だけでした。

アヴィニヨンオペラ座で上演されるバレエ団の自主公演は年に1〜2回だけで、ダンサーのメインの仕事はオペラやオペレッタの中のダンスシーンに出演すること。こうしたオペラ座はフランスの各地方にたくさん存在していて、ダンサーはたいてい同じような活動をしています。オペラやオペレッタの場合、まずディレクターがスタジオで踊りのパートの振付をつくり、その後演出家がほかの要素とからめて舞台上で構成します。演出家が手がけるのは主に振付以外の部分で、オペラのシーンに群舞がどう登場してどう動くかといった流れを決めたり、シーンの後ろで蠢いている様子などを演出していきます。アヴィニヨンでは『ファウスト』をはじめオペラ作品にいくつか出演しましたが、その経験は今自分がオペラの演出をする上でとても役立っているように思います。

アヴィニヨンにいたのは半年くらいとほんのわずかな期間でしたが、バレエ公演『バレエイブニング』にも出演することができました。『バレエイブニング』はいろいろな作品をコラージュした公演で、私はドビュッシーの『月の光』を用いてディレクターが振付をしたトリオ作品を踊っています。

 

アヴィニヨンオペラ座『バレエイブニング』©CINE-SERVI(C)STUDIO J.LEITAO

 

はじめてのヒエラルキー

モンテカルロ・バレエ団に入団したのは20歳の夏。私はアテネツアーから参加しました。私にとってははじめての大きな海外ツアーで、真夏の炎天下のなかバスと飛行機を乗り継いでメンバーとともにアテネ入りしています。私が入団したときはディレクターがピエール・ラコットからジャン=イヴ・エスキュールに変わった頃。日本人ダンサーは私ひとりでした。現在はジャン=クリストフ・マイヨーがディレクターを務めていて、日本人ダンサーでは小池ミモザさんが活躍されています。ラコットの時代はメンバーの大半がフランス人でしたが、ディレクターが新しくエスキュールになったことでメンバーも国際色豊かになって、少しずつカンパニーのカラーが変わってきた。新しいダンサーの顔ぶれも非常にインターナショナルで、4人いた同期は中国人、イタリア人、カナダ人と日本人の私です。

 

 

モンテカルロ・バレエ団は私がはじめて経験したヒエラルキーのあるカンパニーで、ダンサーはそれぞれプリマからコール・ド・バレエまで階級でわかれています。私はコール・ド・バレエでの入団でした。ただコール・ド・バレエで契約をしていても、それ以上の役が付くこともあり、その場合プラスアルファのお給料がいただけます。例えばコール・ド・バレエのダンサーがプリマの役を踊った場合、格差分の手当てがプラスアルファでついてくる。役がもらえるだけでもうれしいのに、お給料もより多くいただけるのだからなおうれしいですよね。

ディレクターは元NDTのダンサーです。それまで私はバレエ中心に踊っていたのでアップライトで軽く踊りがちでしたが、彼は床に吸い付くような動きを教えてくれて、そこで踊り方がだいぶ変わっていきました。モンテカルロ・バレエ団はジョージ・バランシンやアントニオ・チューダーの作品を上演することも多く、例えば『タランテーラ』のデュエットをバランシンのコーチから指導してもらったり、『ガラ・パフォーマンス』でフレンチバレリーナなどを踊った際はチューダー作品のコーチから教わることができました。そのほかウヴェ・ショルツ作品をはじめ、新しいスタイルがどんどん入ってきて、とても充実した日々でした。海外ツアーにも頻繁に出掛けていて、ソ連時代のティビリッシーにも行っています。

 

モンテカルロ・バレエ団時代。『ガラ・パフォーマンス』

 

衝撃だったキリアン作品

モンテカルロ・バレエ団に在籍していたのは一年間。入団した年の秋口に、カンパニーのレパートリーのひとつでシェーンベルクの『浄夜』というキリアン作品の上演が控えていて、間もなくリハーサルがはじまりました。キャストは前回の上演時のままということで、残念ながら私はメンバー入りすることなく、みんなの踊る様子を見学するのみです。キリアンの噂はいろいろ聞いていましたが、実際に踊っているのを見たのはそのときがはじめて。それは衝撃的な体験で、ものすごく心惹かれるものがありました。“こういう作品をもっと踊りたい、NDTに行きたい!”という気持ちが強く芽生えた瞬間でした。

 

NDT2時代。ナチョ・ドゥアト振付作品のリハーサル©joris jan bos

 

ちょうどその年の秋にNDT2のオーディションがあるという話を聞き、受けに行こうと決意しました。バレエ団に入団して数ヶ月後には、早くも気持ちはNDTにいっていた。実際に秋のオーディションを受けて内定をいただき、翌年NDT2に移籍しています。ディレクターはNDTの出身だったので、“残念だけど”と言いながら喜んで送り出してくれました。

NDTはやはり人気で、オーディションには世界中から大勢の志願者が集まっていました。一次はバレエ審査です。いくつかグループをわけて審査をして、その中から数名ずつ残されていきました。二次審査はもう少し複雑なバレエのセンター。続く第三次はモダン的な要素が入ったもので、9拍子や5拍子のミニマル音楽を使っての審査でした。後ろからジュテで出てくるだけとすることはとても単純だけど、バレエのダンサーにとっては拍子の取り方が違うのですごく難しい。ただ私はバレエ団でバランシンやロビンズ作品などカウントが急に変わる踊りもすでに経験していたので、“あぁよかった、得意なのだ、これならできる!”と、ちょっぴり余裕を持ってオーディションに挑むことができました。

 

Pretty Ugly Dance Company創設者のAmanda K. Miller振付作品。(C)hans gerritsen

 

1991年、21歳のときNDT2に入団しました。NDT2は基本二年間の契約で、欠員ができるとオーディションを行って人員を補充します。私が入ったときは4人分の空きがあり、4名のダンサーが採用されました。同期はハーグのコンセルヴァトワールから入った男女2人と、マドリードにあったナチョ・ドゥアトのカンパニーのバレエ学校の生徒が採用されています。ナチョの生徒はローザンヌ国際バレエコンクールのセミファイナリストでした。

ハーグには王立のコンセルヴァトワールがあって、NDTのダンサーだった方が校長を務めていました。その関係もあり、学校公演や卒業公演などでキリアン作品をはじめNDTのレパートリーがたびたび上演されています。またNDTではゲストティーチャーシステムを採用していて、ゲスト講師を定期的に招いては2〜3週間の期間限定で彼らのレッスンを受けていました。ヨーロッパにはそうしたゲストティーチャーを専門にされている方たちがいて、彼らをNDTに招くとき、その後続いてコンセルヴァトワールでも教えてもらう、という流れができていました。付属という訳ではないけれど、コンサルヴァトワールはNDTと一番コネクションが強いバレエ学校であり、卒業生が常にNDTに入っていました。

 

NDT2時代。(C)hans gerritsen

 

オーディションの面接で、キリアンから“次に来るまでに英語を勉強してきてくださいね”と言われていました。NDTの共通言語は英語なので、フランス語で生活していた私はいちから学び直しです。英語を勉強したのは高校の授業が最後。フランスで英語を勉強するのはなかなか大変で、フランス語で書かれている教材で英語を勉強しなければなりません。ただNDT2のバレエマスターをしていたスイス人とベルギー人のふたりがフランス語を話せたので、言葉の面ではかなり彼らのお世話になりました。

何より私にとってははじめてのコンテンポラリーの世界です。入団当初は身体の使い方が全然わからず、それこそコントラクションも形だけなぞっている感じ。習ったことのない動きばかりで、リハーサルではいつもあざだらけになっていましたね。でもそれは周りの若いダンサーもみんな同じです。当時は14人のカンパニーメンバーのうち5人がスペイン人と、スペイン人のダンサーがたくさん在籍していた時代でした。ハーグのコンセルヴァトワール出身の生徒はレパートリーで何度もキリアン作品を踊ったことがあるけれど、ラテンの国から来た人たちは私と同じく身体の使い方がわからない。英語がうまく話せないのも同様で、みんなそれぞれ苦労があったと思います。

 

キリアンがアボリジニのダンスに触発されて創作した初期作品『Stamping Ground』©LAURIE LEWIS

 

シビアなヨーロッパのダンス事情

当時のNDT1は年間約9プログラム抱えていて、NDT2は2プログラム、それぞれひとつの公演が20公演くらいあるというなかなかハードなスケジュールになっていました。最初の頃は規定の公演数のほとんどをNDT1 がこなしていましたが、ほどなくしてNDT3ができ、NDT3に数プログラムわけることで、その分NDT1の公演数を減らせるようになった。NDT1の過酷さが少し薄れ、より内容の濃いツアーが組めるようになった時代だったのかもしれません。

オランダの場合、勝手に“ダンスカンパニー”を名乗ることはできません。またカンパニーである以上、経営破綻しないよう、実績や黒字を出すことが求められます。例えばフリーランスで活動する場合、ひとつのプロダクションのために助成金を申請して公演を打つというのが通常のケース。そこからもう少し発展して法人化する場合、1年分、4年分、8年分の助成金と、長いタームの助成を申請します。カンパニーをつくって企業として成り立たせるためには、通年以上の助成金を獲得しなければなりません。

 

NDT2時代。van Hans van Manen振付作『SQUARES』©joris jan bos

 

カンパニーとして長期の助成金を得るためには、オランダ国内で最低限打つべき公演回数が決められていて、助成金の給付をキープするためにはそれを消化する必要がある。カンパニーを名乗る以上、公演だけで実績を上げなければならず、そこはかなりシビアです。バレエ学校も成果が出ないと合併させられたり潰されてしまうので、学校側は失業者を出さないようにしなければいけない。実績を出さなければいけないけれど、最近は就職難なので運営は大変です。

日本はカンパニーの在り方が曖昧で、ダンサーという職業が成り立ちにくいと言われるけれど、一方でほかの部分で穴埋めができてしまったりする。それにオランダで助成金を得るとなると助成元の方針に合わない作品はなかなか上演できなかったりといった縛りも出てきますが、日本はその分ゆるやかだし上手に他のことと両立させれば助成金に頼らずともできることもある。そういう意味では、日本の方がより芸術の自由度が高いのかなという気もします。

 

Pretty Ugly Dance Company創設者のAmanda K. Miller振付作品。(C)hans gerritsen

 

初舞台はあざだらけ

NDT2に入って最初に踊ったキリアン作品は『Un Ballo』。私の入団の前年にキリアンがNDT2のためにつくった作品です。まずバレエマスターに振付を教わり、ある程度踊り込んだ頃にキリアンが仕上げにやって来ました。リハーサルでキリアンがたくさんジョークを言うのだけれど、私はまだまだ英語に不慣れで、何を言っているのかわからずじまいでしたね。

『Un Ballo』はとても美しい作品ですが、難しいリフトがたくさん入っていて、最初はみんなあざだらけになってしまいます。私もあざだらけになりつつ、そこでキリアンの特徴的なリフトを学ぶことができました。そのほかNDT2では『Stoolgame』という政治的メッセージの強いキリアンの初期作品と、『Stamping Ground』の3つの作品を踊りました。

そのほかNDT2ではオハッド・ナハリンの作品をはじめ、その時代の若手の作品も踊っています。若手の作品を踊るのはやはり楽しくて、すごく触発されるものがありまいた。“私もいつか作品をつくりたい”という気持ちがふつふつと芽生えてきました。

 

NDT2時代。ナチョ・ドゥアト振付作品のリハーサル©joris jan bos

 

NDT2の契約は原則二年。でも入団一年目というのは教わるばかりで、戦力になるかというとなかなか難しい。若ければ16歳で入団する人もいます。右も左もわからない状態で入ってきて、いろいろなことを覚えてやっと踊れるようになった頃、契約期限が来てカンパニーを離れなければならなくなってしまう。メンバーのうち踊れる人が半分、新米が半分となると、踊れるダンサーの負担も大きく、ツアーもかなり過酷なものになってきます。後に三年契約も可となりますが、そういう意味合いも大きかったと思います。三年契約の場合、新米が何人かいたとしても、踊れる層がその倍いてカバーできるし、カンパニーも安定してきますから。

NDT1は男女16人ずつの32人体勢。欠員募集なので、誰か辞めない限り入団はできません。私がNDT1に入る少し前、長い間踊っていたベテラン勢がごそっと辞めて、その分NDT2の若手がたくさん入団したことがありました。そのため私がNDT1に入った頃は30代以下のダンサーがたくさんいて、なかなかカンパニーを辞める人もいなければ空きもないという状態になっていた。仮にひとり辞めたとしても、どこかのバレエ団からバレリーナがぽんと入ってくることもある。

NDT2で時間をかけて育ててきたのに、どんどんダンサーが外に出ていってしまう。すごくもったいないことに、人材を生かし切れてない。これも三年体勢になった一因だと思います。三年契約なら二年時に空きがなくてももう一年NDT2で研鑽を積み、翌年空きがあったらNDT1に入るという道も開けます。実際私がNDT1に入ったときは女性の空きがひとつしかなく、女性で入ったのは私ひとり、あと男性がふたり入団しました。いずれもNDT2の同期です。同期は4人でしたが、もうひとりの女性はまだ若かったこともあってそのままNDT2に残り、一年遅れでNDT1に入っています。

 

NDT2時代。van Hans van Manen振付作『SQUARES』©joris jan bos

 

契約期間内にカンパニー側がダンサーを解雇するようなことはまずなくて、自主的に辞めない限りメンバーに動きが起こることはありません。ただ、いまいち冴えないメンバーには、年に一度の面接の場で“そろそろ辞めない?”という、いわば肩たたきのようなことも行われます。面接ではひとりずつダンサーが呼ばれては、“今のあなたの状況はどうだ”と問題点を指摘されたり、“もっとがんばってください”と発破をかけられたりもします。また面接は、“次の年もカンパニーに残りたいか・離れるか”というダンサーにとって意思表明の場でもありました。

面接のたび、いつも続けるかどうか迷ってました。ダンスカンパニーというのはどこもたいていそうですが、まずトップの人間が上演作品を決め、振付家がキャスティングをして、ダンサーは与えられた演目を踊ります。決してダンサーが自分で選び取っているという訳ではない。ある意味パック旅行のツアーに似ていて、パックだからひとりでは行けないところまで連れて行ってもらえるけれど、同時に自分の興味のないものまで見なければいけなかったりもする。

アーティストとしては、自分で見極め、ひとつひとつ丁寧に選び取っていくべきだけど、それとは相反してる。自分が心から信じ切れない演目があったとしても、プロである以上どの作品も同じ熱量を持って踊る必要がある。そうなるとどこか自分が踊りの娼婦になっているような感じがして、すごく違和感を覚えていました。NDT1に入るときもかなり迷いました。でもNDT1に行ったらまた違うものの見方があるのかもしれないと思い、最終的に入団を決意しました。

以降も毎年ミーティングのたびに悩みました。長くいればいるほどNDTが自分のアイデンティティになっていき、辞めた後の自分が想像しにくくなってくる。また興味深い演目も多く、その魅力もあって、9シーズンという長い期間在籍することになりました。

 

NDT2時代。ナチョ・ドゥアト振付作品のリハーサル©joris jan bos

 

 

Vol.3につづく。

 

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