『Macbeth マクベス』演出・振付・出演の森優貴ロングインタビュー

 ドイツ・レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーの芸術監督・振付家として活躍中の森優貴の最新作が、神戸と東京で開催される。日本での公演は3年ぶり。本公演では、シェイクスピアの『Macbeth マクベス』をベースにした新作を発表する。
 
 シェイクスピアを題材に選んだのは、恋愛、権力や野心、裏切りと騙し合い、暴力など、現代的な解釈を可能にする柔軟性の中に人間ドラマが描かれており、その中でも『マクベス』は、「“純愛”などと決して呼べない関係性で進む物語に惹かれた」と語る。
 
 シェイクスピアをベースにした舞台は、2014年のセルリアン能楽堂〈伝統と創造シリーズ〉で『オセロー&オテロ』として上演。構成・演出・振付を担当し、酒井はな と共演。大胆さと繊細さを合わせ持ち、静謐な空気感を湛えつつも、気迫のこもった舞台で観客を魅了した。
 
 『Macbethマクベス』の出演は、演出・振付を担う森と、ダンサー・振付家の池上直子。池上は本間祥公に師事、ベルギー・パリ・ニューヨークなどでも研鑽を積み、昨年文化庁新進芸術家海外研修生に選ばれ森率いるダンスカンパニーで3ヶ月間芸術監督アシスタント兼プロダクションアシスタントとして、森が発表した新作ダンスオペラ「恐るべき子供たち」の制作に関わったのち、現在は国内を拠点に活動している。

 池上の表現には強さと弱さの絶妙なバランスが、マクベス夫人に求められる要素として最適とキャスティングした。
「出演者がふたりなので、マクベスのストーリを描くにあたって、不必要なものはすべてカットしました」
 
 そして、気になるのは『Macbeth マクベス』のサブタイトル。
「もう、元には戻せない……。」には、どんな思いを込められているのだろうか。
「これは、レディマクベスの言葉です。ハムレットやロミオとジュリエットでも心に残る言葉がありますが、『マクベス』を一言で表せることが出来るフレーズです」
 
 主人公ではなく、夫人のセリフを副題にしたのはなぜだろう。
「こんなことを言うと、シェイクスピアに怒られるかもしれませんが(笑)、マクベス自身が物語からいまひとつ出てこない気がするんです。もちろん主人公ですし、マクベス軸で展開して行くのですが、夫人の方が早い段階で突発的に展開がみられ、ある意味一番の清算をしてゆく人物。
  自分たちが起こした事件に対して清算を行ってゆく。そのひとつが精神崩壊という形で現れる。レディマクベスから受ける衝撃の方が強かったんです。レディマクベスのセリフをサブタイトルに掲げたのは、ドラマ性のある舞台に対して、主人公ではなく2番手3番手となる人物から物語に焦点を当てる僕のこれまでの傾向があると思います」

 


 
 ”戻れない”のではなく、”戻せない”にしたのは?
 「原文では、”What’s done cannot be undone.” なので、直訳すると”戻れない”が正しいのかもしれませんが、”戻せない”には弱さがある。”戻れない”には他人にまかせっきりという、自分たちが被害者というニュアンスを感じる。加害者だからこそ、戻すことができないという受け入れる姿勢。
 痛みで例えるのであれば、”戻れない”は、刀でばっさり切られたような衝撃的な痛みであり、”戻せない”は、針で刺す継続的な奥まで届く痛みのような感覚というのでしょうか。

 人間誰しも持っている野心、暗闇を普段は理性で抑えている。野心に呑み込まれ、自覚し自発的に事件を起こしたからこそ”戻せない”。 マクベスは最初から最後まで優柔不断で、そこを行ったりきたりしているのですが、この”戻せない”は、レディマクベスが精神崩壊をして気が狂ってしまうときにほろっと出てしまうセリフなんです。
 原語で聞くといつも鳥肌が立ってしまう言葉です。レディマクベスの言葉であっても、マクベスが思っていることでもある」
 
 ご自身のこれまでの ”戻せない” 実体験は?
「もう戻せないんだなという意識は常にあります。ドイツに来てからその決断の連続といえます。自分で自発的に決断を出したからこそ結果がついてくる。その結果が必ずしも描いていたものでなかったにしろ後悔はないです。選べば選んだだけの結果はついてきていた」
 
 その中でも、もっとも強く感じた ”戻せない” 事件は?
「オフィシャルに、『この8月に舞台を去ります。芸術監督に就任します』という瞬間が、区切りの一つとして大きかった。でも案外ケロッとしていたかな(笑)」
 
 レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーの芸術監督としての責務をどう感じていますか?
「大きな責任と環境を与えられている恵まれた立場とは逆に、クリエイターとして絶対の質を提供し続けていかなければいけないと思います。作品を創るたびに自分が新たな境地を求め続けないとならない。演出や振付が自己満足で終わることは消して許されない。次世代の子供達への教育に対しての責任。たとえ些細であっても市民の生活の変化に対しての責任がある。舞台芸術は欧州では生活の一部なんです。だからこそ自分を常に奮い立たせて維持する必要があります」

 
 音楽に対しても強いこだわりがあると伺っていますが、本作ではすべての選曲もされています。
「たとえば『ボレロ』を振り付けるとき、最低15種類の音楽を聴きます。楽団、指揮者によっても違う。演奏の仕方とか、どこでボリュームが上がって、ブレスがあって、このブレスの1.5秒の間にこの位置から照明を落とすとか、すべてに精力を注ぎます。音楽が動き、舞台転換、照明デザインまですべてを含める総合演出を可能にしてくれます。
 今回使うのは現代音楽の弦楽器になりますが、耳に入ってきたときの統一性を重視します。ミックスサラダにならない曲。不快感があるミックスの仕方はしないですね。音色の統一化です」
 
 音色の統一化とは?
「音楽というものは頭で考える芸術でなく、人々の感受性に直接訴えかけるものです。その音楽の持つ力を無駄にはできない。たとえば、40分の作品に音楽をつけるとします。30分は原曲にミックスされた電子音楽を使い、ピアノを入れて、最後に打楽器みたいな使い方はしないですね。音楽を視覚化する。聴こえて来る音楽を形にする。様式美とはまた違います。
 音楽重視だけど、音楽はメインではない。音が鳴っていないところのリズム、舞台転換の間も使う。音楽が文字として見えてくる。音楽には無限の使い方があります」
 
 舞踊についてはどうですか?
「どんな作品であれ、まっすぐ芯が通っていること。舞踊とはすべてにおいて説明は出来ない。説明するものではないから。でも、これがなくてはいけないんだというこだわりと衝動。無意識の中にある意識を大切にしています。
 現在はコンテンポラリーダンスと言いますが、どこからどこまでがコンテンポラリーなのか。海外の作品でもそうですが、コンセプト・アイディア重視が多く、振付家の絶対となるスタイルや手法が薄れていっている傾向があると思います。

 舞踊は日々鍛えられた身体を使っての表現なので、身体が生み出す動きひとつ一つが言葉として成立していないと人々の心に入っていかない。そうでないと様式美のみになってくる。アイディア重視の発展性に面白みはあります。
 ただ、それだけが僕の目的ではなく、何かしら人の心に触れたい。それにはやはり僕は音楽を重視するし、総合演出を試みる。照明、舞台転換、舞踊はその中のひとつであると捉えています。

 僕の中で見えた独自の世界を舞台で実現させ存在させる。見えたものすべてに疑いを持たずに形にしてゆく。
何も無いところから作り上げて行く世界に、古い・新しいなどの主観的で安易な判断は必要ないんです。特に作者が作り出す芸術には、人の心に触れるだけの力があるかないかです」
 
 そんなに自然に振付のイメージが見えてきてしまうものだろうか。
「何十パターンも見えると、どっちがいいのかなという感じです。動きを選ぶのに迷いはあっても創るのに苦労はない。それは音楽から動きを見出そうとするから、振付が見える。
 でも、創るという作業は、一度自分の真っ暗なところに潜り込まないと出てこない。そこまでしなくても、様式美を追求した美しい作品を創ることはできますが、作家が大作を1年に1本書いたら休養が必要というのはすごく良く分かる。
 新作は毎回発明ですから、振付家も作家だと思っています。一冊の本をどっぷり読む感覚で『Macbeth マクベス』を観てほしい」



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