~「きこえる側」「きこえない側」の世界を提示し合う挑戦的な作品~
ダンスは優れた身体能力を持つ者の特権ではない。全ての人間は他人とは違う身体を持つがゆえにユニークな存在であり、「その身体にしかできない動き」が必ずある。ダンスは全ての人に開かれていて、踊れない人はいない……それがコンテンポラリー・ダンスの基本理念の一つである。当然、障害がある人にも開かれている。
障害者とのダンスにいち早く取り組んできたイギリスで、そのパイオニアでもあるダンス・カンパニー「カンドゥーコ」でダンサーとして活躍している南村千里。今作は映像や音響と身体と最先端の新しい関わり合いを開いてきたライゾマティクスと南村のコラボレーションである。
南村は「きこえない」のではなく「きこえないという感覚を持っている」のだという。音を振動として感じるかわり、「きこえる者」以上に繊細に感得することができるのだ。逆にきこえる人は、人混みのノイズの中でも自分の名前を選択的に聞き分けることができる。これはきこえない側からはじつに不思議に映る。そうした認識の差異や交錯する互いの射線を探り合う舞台となった。
ダンサーは踊りながら意図的に床を強く踏むことで、きこえない人にも伝えていく。また鳴り響くノイズの中で(きこえない側にはなんの痛痒もない)、菊沢将憲が声を張り上げて語りかける。完成形を披露するのではなく、「きこえる側」「きこえない側」が互いに認識している世界を提示し合う、一種のレクチャー・パフォーマンスの試みとして考えたほうがいいかもしれない。ただライゾマとの関わりはもっと深められるだろう。
聾唖は障害の中でも外見からは分かりづらい。こういう挑戦的な作品こそ、公共劇場がやる意味があるといえる。練り上げた再演を期待したい。
〈2016年12月15日 あうるすぽっと/文・乗越たかお〉
撮影:池上直哉